

「私」についてもっと理解を深めてみましょう。
人間以外の動物には「私」はありません。
むしろ「私」を持つ人間だけが特別な存在なのです。
そしてこの「私」もまた思考から創り出された実体のない妄想にしか過ぎないことが分かりました。しかも「私」は何の決定も実際は行っておらず、脳がいつの間にか決定してしまったことをなぞるように現れてくるのです。
常に変わらない「私」はどこにも存在せず「私」を意識した時だけ「私」が現れるのです。
そんな「私」はいろんなことを示唆します。
たとえば「私」が外の世界から独立していることや「私」という意識が永遠であるようなことです。
もし、あなたに対してどこからどこまでがあなたですか?と聞けば、間違いなくあなたは、自分の体を指し示すでしょう。
本当にそうですか?
ここに有名なパラドックスがあります。
ある船があります。
その船はとても古い時代から保存されていましたが、もちろん年月とともに素材や部品が傷みます。
そのたびごとに素材や部品を新しいものにしました。
そして、もともとの船の材料は全て新しいものに置き換えられてしまいました。
さて、この船はもともとの船と同じものか、そうでないか。
これは「テセウスの船」と呼ばれるものです。
(プルタルコスは、全部の部品が置き換えられた時、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として、置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのか、という疑問が生じる。)Wikipediaより
直感的には「全く同じ形・寸法であったとしても、元の船とは同じではない」と思う人が大多数でしょう。
あるいは「ワシントンのハンマー」というものもあります。
ジョージ・ワシントンが使ったハンマーがありました。
しかし年月を経るたびに、柄は折れて金属製の部分は傷みました。
そこで、寸法、材質は全く同じままに取り替えました。
もちろん、ワシントンが使っていたものとは完全に入れ替わっています。
これを「ワシントンが使っていたハンマー」と言えるでしょうか。
さて、私たちの身体に目を向けますと、毎日細胞が死滅して新しい細胞に取って代わっています。
原子レベルでも、その入れ替わりがあります。
1年、あるいは数年の内に全ての原子、もしくは細胞は入れ替わります。
それは元の「私」と同じでしょうか。
あるいは、幼い頃の「私」と今の「私」は姿も形も変わっています。
さて、それは幼い頃の「私」と同じでしょうか。
たぶん多くの人は「同じです。なぜなら『私』という意識は変わっていないのだから」と言うでしょう。
しかし、問題の本質はテセウスの船やワシントンのハンマーと同じではないでしょうか。
テセウスの船やワシントンのハンマーは形状も材質も全く同じでした。
あなたについて見てみると、10年前のあなたと今のあなたは姿形も違うではないですか。10年前と今のあなたは一体、何が同じなのでしょうか。
この世には恒久不変なものは何も存在しません。
全てのものは生じたら滅してゆくものです。
そうすると、構成する身体の素材が全て入れ替わったとしても「私」だけが恒久不変であるというのは矛盾します。
もし「私」が恒久不変なものであったとしたら、その「私」はいつ生まれたのでしょう。
そもそも恒久不変なものが生まれること自体おかしいでしょう。
このように、生じもしないし、滅しもしない「私」というものがあったとしたら、今この世はこれまで存在した人間の「私」だらけになってしまいます。
実体としてのものは全て生じては滅してゆきます。
一方、概念は恒久普遍なのです。
なぜなら、概念は妄想だからです。妄想は実体ではありませんから、恒久普遍と決めても問題はありません。
いや、恒久普遍な「私」の矛盾を解消するために「輪廻転生」があるのだ
と言う人もいます。
確かに、ヒンドゥー教や現代の仏教ではその教義に輪廻転生がありますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で輪廻転生を認めると教義自体が成り立たなくなります。
私たち、特に外国のように民族や宗教の多様性がない日本人は、自分たちの思考が世界標準であると疑いもなく信じてしまう傾向があります。
生まれながらにして何となく「生まれ変わり」があるかのように教えられてゆくと、それが「常識」や世界標準であるかのように思うのです。
漠然と輪廻転生を信じている人は、世界の多数の宗教が輪廻を認めていないことを知らないし、輪廻転生が認められない構造になっていることを知らないのです。
もし、輪廻転生が真実ならば、全ての宗教で認められていなければいけません。しかし、現実は違います。さらに、真実というならば、科学的に証明されていなければいけませんが、その証明はされていません。
ただ、私たちは価値判断に基づく宗教的信念を論ずることはしません。
それはどこまで行っても平行線なのですから。その意味はもうおわかりでしょう?
このような宗教的信念はともかくとして「私」という意識の有無で、たとえ素材が入れ替わったとしても、テセウスの船やワシントンのハンマーとは違う、とどうして言えるのでしょうか。
そもそも「私」は脳から創り出された妄想だったではないですか。
1日に2億個の細胞が死に、2億個の細胞が再生されています。
酸素を取り入れ、取り入れられた酸素は体中に運ばれ、老廃物の二酸化炭素が排出されます。食べ物は口から胃へ、胃から腸へ運ばれる過程で消化され、体内に取り込まれ、一部は排泄されます。
では、あなたに聞きますが、外部から肺に取り入れた酸素はいつからあなたになるのですか。
食べ物はいつからあなたになるのですか。
肺や胃にある間はあなたではないのですか。
肺や腸から吸収されてあなたになるのですか。
もし指が切り落とされたら、その指はあなたですか。
もし、手術で縫合されてもその指はあなたですか。
テセウスの船やワシントンのハンマーや日常の呼吸、食事などを考えてみても、思いのほか私たちには「私」と「私以外」の境目がないことに気がつきます。
そして、これは実は人間以外の動物にとって当たり前の世界なのです。
本当は全てのものはこの世界、宇宙そのものであるにもかかわらず、人間だけが「私」を脳が創り出したために、世界、宇宙と別なもの、対立するものとして捉えてしまうのです。
「私」の目から見た世界「私」が体験した世界「私」が信じている世界だけがあたかも正しいと思い込むのです。
世界はあなたのために、あなた中心に存在していませんが、あなたは自分が体験する世界が実体だと信じています。
これは妄想である「私」に対する執着、我執から発生するものなのです。
優れている・劣っている、正しい・間違い、美しい・醜い、強い・弱いなどは比較によって発生する評価です。
当然、評価は妄想ですから実体ではありません。
しかし、実体と捉えると、この「実体」を持っている「私」は「正しい」と信じ込み、これから生み出される我執がこの対立した妄想をもとに戦ったり、逃避したりするのです。
よくよく考えるとこれが本当は無意味なものであることに気がつくでしょう。
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