人生の意味を探すのをやめて、今この瞬間を生きる方法 – 自己変革のための生まれ変わりセミナーのすすめ

私たちは日々、様々なことに意味を見出そうとしています。太陽はなぜ輝いているのか、自然の役割は何か、自分の人生の意味は何なのか。こうした疑問に答えを求めるのは人間の習性ですが、実は意味とは人間の思考が生み出すものに過ぎません。

人間がいなくなれば、物事の実体は残りますが、意味づけは消えてしまいます。意味について悩むとき、私たちは自分の脳が生み出す妄想の中で悩んでいるのです。

生きることや死ぬことに本来の意味はありません。どんな解釈をしても、明確な答えは得られないのです。自然界や宇宙に存在するものには、意味や目的、意図がないのです。ただそこにあるだけなのです。

例えば、遺伝子が自己複製の情報を持っていることを知ると、「遺伝子は自らの存続や複製を目的として存在している」と解釈したくなります。しかし、遺伝子は偶然の産物であり、特別な目的を持っているわけではありません。遺伝子という現象は自然のプロセスの結果であり、そこに意味を見出すのは人間の解釈に過ぎません。

サイコロを振る行為は、未来の不確かさを象徴しています。特定の目が出ても、それは振る前の不確かさの表れであり、深く考えることは無意味です。過去を振り返れば原因を特定できるかもしれませんが、未来は常に不確かです。人生が運命や宿命によって事前に定められていると考えるのは理に適いません。未来は常に変化し得るものであり、確定されたものではありません。

過去も未来も存在しないことを忘れると、妄想に取りつかれてしまいます。本来、物事は意味の有無に関わらず存在します。意味は人間が与えるものであり、人間がいなくなればすぐに消えてしまいます。もともと意味がないものに「本当の意味」を探そうとしても、妄想の中で迷うだけです。

生きるということは、意味を見出すことではなく、あらゆる体験を肯定し、ありのまま、価値判断せず、回避せずに「体験すること」なのです。
私たちは日々、出来事を体験し評価しますが、自分が評価していることを忘れ、その評価に振り回されると、人生は台無しになります。

嫌だ、不快だと勝手に思ったことを世界の真実であるかのように扱い、逃げ出そうとすると、コントロールできない思考や感情をコントロールしようと躍起になります。その結果、人生の幅は狭くなり、硬直化してしまいます。逃げ先は妄想の森の袋小路なのです。

意味や目的を追い求めるのではなく、今この瞬間に起きていることを丸ごと受け入れ、体験することが大切です。思考や感情をコントロールしようとするのではなく、それらをありのままに観察し、自分の行動を選択することが重要なのです。そうすることで、より柔軟で自由な人生を送ることができるでしょう。

こうした考え方を学び、実践するための一歩として、「自己変革のための生まれ変わりセミナー」への参加をおすすめします。このセミナーでは、意味や目的にとらわれず、今この瞬間を生きるための智慧を学ぶことができます。自分の思考や感情に振り回されるのではなく、それらを客観的に観察し、自分の人生を自分の手でデザインする力を身につけましょう。あなたも、より自由で豊かな人生を歩み始めてみませんか?

2024年4月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : V.d.s.-Master

生き方を変革するセミナー: 死との向き合い方から学ぶ、新しい自分への道

人間はしばしば、「焦点の幻想」という心理的な現象に陥ります。これは、目先の小さな問題に囚われてしまい、より重要な長期的な課題を見失う傾向のことです。

特に、人生の最終的な事実である「死」というテーマに対して、この傾向が顕著になります。私たちは、死がいつ訪れるかわからないという不確実性の中で、日々の些細な出来事に心を奪われがちです。

しかし、私たちは未来を見据える計画を立て、過去の経験から学び取る能力を持っており、この能力が文明の発展に寄与してきました。死に向き合うことは、私たちに自身の生き方を見つめ直す機会を与えます。

日常の小さな楽しみに満足する代わりに、より深い意味や目的を追求することの重要性を再認識させるのです。

 

キューブラー・ロスが提唱した「死の瞬間」のモデルに従うと、人は否認、怒り、取引、うつ、そして受容の段階を経ていくことがあります。

これらの段階を理解することは、終末期にある人々を支えるだけでなく、自己の成長にも役立ちます。

 

この理解を深めるために、「自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration」が役立ちます。

このセミナーは、臨死体験瞑想やマインドフルネスのテクニックを通じて、人生を総括し、自己変革を促します。参加者は、今までにない新しい認識を持ち、どんな状況でも絶望することなく、活き活きと生きることができるようになることを目指します。

これは、私たちが日々の生活の中で遭遇する小さな挑戦に振り回されることなく、より大きな目標や意味に焦点を当てるための強力な手段となります。

 

「自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration」への参加を通じて、参加者は新たなニューヒューマンとしての道を歩み始めることができます。これは、生と死の狭間で揺れ動く現代人にとって、真に充実した人生を送るための実践的な手段を提供します。

死を完全に受け入れ、それを通じて生きることの本質を深く理解すること。これこそが、私たちが目指すべき生き方です。

セミナーでは、日々の小さなことにとらわれず、より大きな視野で人生を捉える力を養います。

コントロールできないものは受け入れる

私たちは日々、様々な思考や感情に囚われ、時には苦悩を感じることがあります。しかし、本当に私たちがコントロールできるものは何でしょうか?自分の思考や感情、他人の行動、社会の動きなどを必死でコントロールしようとしても、結局はうまくいかず、余計に苦しくなってしまうことがあります。

## コントロールできるものとできないもの

この世には、自分がコントロールできるものとできないものがあります。コントロールできないものに執着し、思い通りにしようとすると、かえって苦悩が深まるでしょう。一方で、コントロールできるのに、それを活かさずに苦しんでいる人もいます。

私たちは他人や社会をコントロールできません。
他人がどのように考えてどのように行動するか、コントロールできません。

自分自身の思考や感情もコントロールできません。
できる、という人もいますが、では、なぜ同じような思考や感情がやってきては振り回されるのでしょう。

実は、私たちがコントロールできるのは自分の行動だけなのです。思考や感情は、行動に影響を与えはしますが、支配はしません。もし思考や感情が行動を完全に支配していたら、私たちは衝動的な行動ばかりとっているはずです。
例えば、相手を殴ろうと思えば殴らないといけないし、殺したいと思えばそうしなければいけません。
しかし、実際にはそうではありません。これは、思考や感情が行動を支配していない証拠なのです。
もし、思うこと、感じることと行動を一致させないといけないなら、私たちは今頃は墓の中か病院か刑務所でしょう。

## 新しい生き方:ニューヒューマンとは

コントロールできないことに無駄な努力を費やすのではなく、コントロールできることに集中する。それが、私たちが提唱する「ニューヒューマン」の生き方です。ニューヒューマンとは、自己と社会に対して深い意識と責任を持ち、内面の妄想に惑わされることなく、現実を正しく理解し、自分の価値観に従って行動する人々のことを指します。
コントロールできないことは完全に受け入れる(アクセプタンスといいます)ことです。
コントロールできない現実を受け入れることは大切であり、現実に抗ったとしても絶対に負けるのですから。

どんな絶望的な思考や感情があったとしても、それらに反応せず、自分にとって有益な別の行動をとることができる。これは練習によって可能になります。ニューヒューマンは、個人の成長と社会貢献のバランスを重視し、科学的な知識と合理的な思考に基づいて行動します。

## 自己変革のための生まれ変わりセミナー

「自己変革のための生まれ変わりセミナー」では、こうしたニューヒューマンとしての生き方を学ぶことができます。セミナーでは、自己理解を深め、思考や感情との付き合い方を見直し、自分の価値観に沿った行動をとる力を養います。

人生における真の意義は、どのように生き、どのように世界に影響を及ぼすかによって定義されます。「自己変革のための生まれ変わりセミナー」は、その実現に向けた重要なステップとなるでしょう。自分の内なる力を引き出し、より充実した人生を送るために、このセミナーに参加してみませんか?きっと、あなたの人生を変える新しい視点が得られるはずです。

自己変革への道:ニューヒューマンになるための生まれ変わりセミナー

私たちの認識が現実の錯覚を生み出すことを理解するために、眼鏡をかけ忘れて外出した日のことを想像してみましょう。ぼやけた視界から見える世界は、あいまいで不明瞭ですが、家に戻って眼鏡をかけた瞬間、世界が一変し、はっきりとした色と形が見えるようになります。この例は、私たちの内面の変化だけで、まるで現実が一新されたかのように錯覚することを示しています。しかし、実際には外界は全く変わっていないのです。

ライフ・ヴァリュー

「ライフ・ヴァリュー」とは、私たちの人生における核となる価値観や生きがいを指します。これは、自分の行動が社会や他者にどのように貢献し、意味深い影響を与えられるかに関するものです。教育者が若者への知識の伝達を、ボランティアが社会的弱者への支援をライフ・ヴァリューとして掲げるように、自己実現のためではなく、より大きな社会的意義を追求することが重要です。

ニューヒューマン

「ニューヒューマン」とは、自己と社会に対して深い意識と責任を持ち、内面の妄想に惑わされることなく、現実を正しく理解し、ライフ・ヴァリューに従って行動する人々を指します。ニューヒューマンは、個人の成長と社会貢献のバランスを重視し、科学的な知識と合理的な思考に基づいて行動します。彼らは、人生の困難を乗り越える力を内面から育み、自分だけでなく社会全体の進歩に貢献することを目指します。

私たち一人一人が、ニューヒューマンとしての資質を身につけ、個人のライフ・ヴァリューに基づいて充実した人生を送ることは、現代社会において非常に重要です。そのためには、自己理解を深め、認識のプロセスを理解し、自己と現実の間の認識をクリアにする方法を学ぶ必要があります。この学びを通じて、私たちは困難に直面した時でも、ライフ・ヴァリューに沿って意味のある行動をとる力を養うことができるでしょう。

生まれ変わりセミナー

「自己変革のための生まれ変わりセミナー」は、こうした学びの機会を提供し、参加者がニューヒューマンへと成長するための一助となります。このセミナーに参加することで、私たちは内面の妄想に振り回されるのではなく、現実を受け入れながらも、自己の真の価値を追求し、社会に積極的に貢献する力を身につけることができるのです。

人生における真の意義は、どのように生き、どのように世界に影響を及ぼすかによって定義されます。*「自己変革のための生まれ変わりセミナー」は、その実現に向けた重要なステップとなるでしょう。ぜひ、このセミナーに参加して、あなた自身のニューヒューマンとしての可能性を開花させてみませんか?

脳科学から見た「私」の正体:空っぽの妄想に執着する必要はない

「私」は誰なのか?

私たちは日常、何気なく「私」という言葉を使っています。しかし、その「私」とは一体何なのでしょうか?脳科学の最新の研究成果に基づき、「私」の正体を探っていきたいと思います。

脳が創り出す「私」

脳科学の研究によると、「私」という実体は存在しないことが分かっています。私たちの脳は、膨大な情報を処理し、意味を作り出す能力を持っています。そして、その意味の一つが「私」なのです。つまり、「私」は脳が創り出す錯覚に過ぎないのです。

「私」は意識していない

私たちの行動の大部分は、意識的な選択ではなく、脳の自動処理によって行われています。例えば、呼吸や心臓の鼓動、歩いたり食べたりする動作などは、意識的にコントロールする必要はありません。

さらに、最近の研究では、脳が行動を起こす前に、意識がそれを認識しているということが分かっています。つまり、「私」が行動を選択したように感じるのは、脳が後から辻褄を合わせて作り出した錯覚なのです。

「私」は妄想であることのメリット

「私」が妄想であると知ると、私たちのものの見方は大きく変わります。

  • 執着から解放される

実体のない「私」に執着する必要はありません。苦しみや怒り、恐怖などの感情は、「私」を守るために生じますが、その「私」自体が空っぽであれば、それらの感情に振り回される必要もなくなります。

  • 世界とのつながりを感じる

「私」は自然界から独立した存在ではなく、宇宙全体とつながっているという感覚が生まれます。他者への優しさや思いやりが自然と湧いてくるようになるでしょう。

自己変革のための生まれ変わりセミナー

心理療法の技術やマインドフルネス、臨死セミナーと瞑想などを駆使した「自己変革のための生まれ変わりセミナー」では、「私」の正体を知り、妄想に執着することなく、より自由に生きられる自分へと変容するためのサポートを提供しています。

セミナーでは、以下のような内容を扱います。

  • 脳科学から見た「私」の正体
  • 「私」に執着する理由とメカニズム
  • 執着を手放し、自由に生きるための方法
  • マインドフルネスや瞑想の実践
  • 臨死体験の瞑想 死から今自分が生きていることを瞑想し人生を総括する

今すぐ参加して、新しい自分に出会いましょう!

「私」の正体を知り、私たちが提唱するニューヒューマンとなり、真の自由を手にするための第一歩を踏み出すチャンスです。今すぐセミナーに参加して、新しい自分に出会いましょう!

「どうでもいい」という生き方 – こだわりから解放され、自分らしく生きるために

「どうでもいい」という言葉は、一見ネガティブに聞こえるかもしれません。しかし、その真の意味を理解し、実践することで、私たちは人生における様々な問題に対処する新しい方法を見出すことができるのです。

日常生活の中で、私たちは仕事、人間関係、自己評価など、あらゆる場面で自分の考えや感情に振り回されがちです。過去の失敗や将来への不安、他人の評価など、様々なことにこだわり、本来の自分らしさを見失ってしまいます。

「どうでもいい」という概念は、こうしたこだわりから自由になった行動をすることを可能にしてくれます。物事の本質を見極め、何が真に重要で、何がこだわりの対象にすぎないのかを見分ける能力を身につけることで、私たちは自分らしく生きることができるようになるのです。

この概念を実践することで、ストレス軽減、自己肯定感の向上、柔軟な思考力、問題解決能力の向上、人間関係の改善、人生満足度の向上など、多岐にわたる効果が期待できます。

しかし、「どうでもいい」という概念を実践するのは簡単なことではありません。長年のこだわりを手放すためには、自分自身と向き合い、内面の変化を起こす必要があります。

こうした「どうでもいい」の考え方を深く理解し実践していくには、日々の意識的な努力が欠かせません。時には、自分自身と向き合い内面を見つめ直すような機会を作ることも大切です。例えば、「自己変革のための生まれ変わりセミナー」では、マインドフルネスや臨死体験瞑想、心理療法の技術などを通して、意識変容を促す体験ができます。このようなセミナーに参加してみるのも、自分自身と向き合う良い機会になるかもしれません。

「どうでもいい」という言葉は、私たちに新しい生き方を提示してくれます。それは、自分自身と向き合い、真の自由を獲得していくための道筋なのです。この概念を理解し、実践していくことで、私たちは一人一人が自分らしく生き、より豊かな人生を送ることができるでしょう。

こだわりから解放されて生きる。そんな「どうでもいい」という生き方を、一緒に探求していきませんか。「自己変革のための生まれ変わりセミナー」で、新しい自分への第一歩を踏み出してみるのはいかがでしょうか。

四苦八苦は絶対に避けられない

人生には、生老病死や愛する人との別れ、思い通りにならないこと、嫌な人との出会いなど、様々な苦しみが付きものである。これらの苦痛は、人生にセットされた避けられない要素だと言えるであろう。

私たちは、これらの苦痛から逃れようと必死になる。しかし、逃げれば逃げるほど、苦痛は脳に刻み込まれ、身動きができなくなってしまうのである。例えば、嫌なことから逃れようと家に引きこもれば、一時的には安心感を得られるかもしれない。でも、いざ一人になったとき、生きるためのスキルがないことに気づかされるのである。

引きこもっている間も、将来への不安は頭から離れない。そんな苦しみから逃れようと、ゲームなどに没頭する人もいるであろう。でも、それは一時しのぎにすぎない。

本当に大切なのは、これらの苦痛をありのまま受け入れることである。そうすれば、苦しみに支配されることなく、自分の行動を選択できるようになる。

人生の苦しみから目を背けず、真摯に向き合う勇気を持つこと。それが、よりよい人生を歩むための第一歩なのかもしれない。

死を意識し、今を生きる!充実した人生を送るための思考法

妄想に惑わされない、真実の自分と生きる

私たちは、喜び、悲しみ、怒り、恐怖など、様々な感情に彩られた人生を歩んでいます。しかし、これらの感情は脳内で作り出される「妄想」であり、必ずしも真実とは一致しません。

過去の経験や価値観に基づいた妄想は、時に私たちを苦しめ、行動を制限してしまうことがあります。しかし、私たちは妄想に支配されるのではなく、自分自身をコントロールする力を持つことを理解する必要があります。

どんな妄想が頭をよぎっても、それに振り回されることなく、妄想に反応せず活き活きと生きることが重要です。

真実の自分と繋がる

社会的な役割や他人からの評価によって定義されるのではなく、自分が何を求め、何に喜びを感じるのか、自分自身と向き合うことで、真実の自分を見つけることができます。

真実の自分を見つけることは簡単ではありません。しかし、それを通じて、私たちは自分自身の可能性を最大限に発揮し、より充実した人生を送ることができるのです。
そのために『自己変革のための生まれ変わりセミナー』を実施し、そのあとの研究会でスキルとして身につけるエクササイズを行います。

たまたま生きている奇跡

私たちは、生きることが正しいと思って生きているわけではありません。たまたま生きているそのことを大切にし、どんな死に方であったとしても、死ぬまでは活き活きと生きる。
私たちは誰もがいつかは(その時期は誰にも分からない)必ず絶対に死にます。

この有限な時間を無駄にせず、後悔のない選択をするために、今この瞬間を大切に生きることが重要です。

妄想を超えて、真実の自分と生きる

  • 思考や感情は脳内で作り出される妄想であり、真実とは異なる。
  • 妄想に振り回されることなく、これらに反応しないことによって、妄想とは関係のない行動ができる。
  • 真実の自分を見つけ、可能性を最大限に発揮する。
  • たまたま生きている奇跡を大切にし、今この瞬間を活き活きと生きる。

これらの理解を深め、実践することで、私たちは日々直面する多くの妄想を超えて、現実に基づいた選択を行い、本当に価値のある人生を送ることができるのです。

思考や感情に囚われず、自分らしい人生を歩んでいきましょう。

コントロールの迷宮を抜け出す:アクセプタンスで自己解放へ

私たちは、コントロールできないことをコントロールしようとして、とても悩みます。

なぜなら、コントロールできないものは、コントロールできないからです。そして、コントロールできないことに対して怒り、憎み、攻撃的になります。あるいは、無価値感、劣等感に襲われます。

 

たとえば、人の言動はコントロールできません。

なぜなら、その人はあなたではないからです。

その人にはその人の行動や思考があるからです。

その人に成り代わって、どう生きるべきか、どう行動すべきか、どう考えるべきかをコントロールすることなんて絶対にできないのです。

 

同じように社会をあなたはコントロールすることはできません。

あなたはあなたの人生しか生きることができないのです。

 

しかし、実際のあなたはどうでしょう。

人や社会をコントロールしようとしていませんか。

 

もし、あなたがある人から悪口を言われたらどうしますか。

悲しい気持ちになったり、腹が立ったりするでしょう。

では、なぜそんな気持ちを持つのでしょうか。

 

そんな時のあなたの心の中を見てみましょう。

きっと

 

私の悪口を言うべきでない

私の悪口を言ってはいけない

 

というものが必ずあるでしょう。

 

これら

 

~べきでない

~べきである

~ねばならない

~してはいけない

 

などというものは「べき思考」と呼ばれもので、あなたの頭の中にあるルールです。

 

べき思考」はとても厄介なものです。

これらは、さまざまな理由づけや評価で武装して「この世の常識」「みんなが守るべきもの」に変わります。

「正義」「正しさ」という評価で武装するともっとやっかいなことになります。信念や価値観という形をとって、その人にとっては絶対的に正しいもの、人にとっても社会にとっても正しいものと信じてしまうからです。

 

べき思考」はあなたが定めたあなただけのルール(マイルール)にしか過ぎません。

全ての人があなたと全く同じ内容の「べき思考」を持っているわけではないのです。

べき思考」は実体として存在しません。

妄想なのです。

 

あなたがいくらルールを作っても破られる時があります。

自分に課したルールが破られると、自分に腹立ち、嫌になります。

人に課したルールが破られると、相手に腹立ち、失望します。

 

よく考えるとおかしなことに気づきます。

自分が作ったルールを他人が守らなければいけないことはないのです。

しかし、自らのルールを万人が守るべき「常識」と信じてしまうと、それに反する言動をする人を許せなくなるのです。

 

自分が作ったに過ぎないルールに人を従わせるためには、あなたはその人の思考や感情、どのような言動をすればよいかの行動をコントロールする必要があります。

実際にこのようなことはできるでしょうか。

 

あなたの作り上げたルールは人をコントロールしないし、そのルールは決して世界の常識でもないのです。頭の中にあるルールが単なる妄想であることをわからず、それを実体だと信じて、それによって人をコントロールしようとするのです。

あなたは決して人をコントロールできません。

同じような意味で社会もコントロールできません。

 

コントロールできないものをコントロールしようとする試みは、現実を思考で否定するようなものです。必ず、完全に失敗します。

 

過去もコントロールできません。

すでに起きている現実を「そうであってはならない」「こうすべきだ」と思考で否定しているだけなのです。

起きてしまった出来事に対して「なぜか」と原因を突き詰め、分析することも直接に役立つことではありません。

起きてしまった出来事に対して、今、この時にできる行動をすることが先決であり、分析は事後に行えばいいことです。

なぜならば、起きてしまった出来事に「なぜか」と問うのは、たいていの場合、現実否定が含まれているからです。

人生において、大切な人との離別や死、裏切り、自分の病気などに出くわした時に「なぜこうなったんだ」と分析しても解決にならないのです。分析している間は何かしている気持ちになることが多いですが、長い目で見ると、苦悩を深めているだけです。

起きてしまった出来事をありのまま認め、そこから自分がとり得る選択をし、行動する必要があります。その場合にも、自分がとり得る合理的な行動をとり、他人や社会のようにコントロールはできないものは、アクセプタンスする必要があります。

 

コントロールできるものはコントロールし、コントロールできないものはコントロールしないこと、コントロールしない代わりに受け入れることなのです。

受け入れるといっても、条件付きではなく、事実そのものをありのまま全部受け入れる(アクセプタンス)のです。

何よりも、コントロールできるものとできないものをしっかりと区別できる知恵がとても必要となります。

私たちの根底にあるものMEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS

私たちの根底にあるものが、MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS です。

これはキリスト教の影響下にあったヨーロッパのバロック期にもてはやされました。私たちは、宗教とは関係なく、戒めとして、そして行動指針としてこれらを重要視しています。

 

古代ローマで将軍が勝利の凱旋パレードを行うとき、将軍の使用人は「MEMENTO MORI」と将軍に囁いたとされています。

 

Respice post te!

Hominem te esse memento!

Memento Mori!

 

このラテン語はこう書いてあります。

 

振りかえろ!

あなたもまた人であることを忘れるな!

あなたもまた必ず死ぬことを忘れるな!

 

今は勝利の絶頂にいるかもしれませんが、明日には戦いに敗れて死んでいるかもしれません。

人は必ず死にます。

その死ぬ時期すら分かりません。

このことは私たちがセミナーで何度も繰り返してきたことでもあります。ともすれば「私は死ぬ」「私はいつ死ぬかも全く分からない」ということすら忘れて、人生を蕩尽してゆくこともしばしばです。

 

人生はゲームのようなものです。しかし、たった一度だけのゲームなのです。いつゲームオーバーになるか分かりません。

ある日突然やってくるのです。

私たちはこのゲームしかできないのです。

リセットもセーブもありません。

だとしたら、たまたま生まれたうえに、このゲームをせざるを得ないなのなら、とことん楽しまないと損です。

このように死と向き合い、死を真面目に考える者のみが、よく良く活き活きと生きることができるのですから。

生きていることは、死んでいないということ。そして、生きることに意味はありません。

生きることそのものを楽しんでゆくのです。

その中には四苦八苦が必ずあります。その四苦八苦すらも人生の一部なのです。

 

過去はすでになく、明日はまだ来ていません。

いつ死ぬか分からないからこそ、CARPE DIEM(一日の花を摘め 一日を摘め 今を楽しめ)なのです。

古代ギリシアのホラティウスが著した『歌集』には

 

Carpe diem quam minimum credula postero

明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め

 

と書いています。

まだ来てもいない未来は過去と同じく妄想です。

未来や過去はあったこともないし、あることもないのです。

私たちが生きているのは今しかありません。

常に今を生きているのです。

そして、この今こそが現実です。

現実である今から逃避して、ありもしない未来や過去へ妄想の旅をして自ら苦悩を作り出す必要はないのです。今この瞬間を私たちは精一杯味わい尽くしながらゲームをしてゆくのです。

人生は短く、時間はつかの間です。そして誰もが死んでゆくのですから、今ある機会をできるだけ楽しむことです。

 

妄想を取り払うと、そこには実体があるだけです。

実体とは、

 

ものがあってものが動いているだけ

 

なのです。

そこに意味はありません。意味は妄想だからです。

そして、ものすらも、想像を絶する広大な宇宙のありとあらゆるものが素粒子の流れにしか過ぎません。

あたかも空(くう)のようなものです。そして素粒子から構成されている宇宙は無から誕生しました。

まさにVANITAS(虚無)なのです。

旧約聖書の伝道の書にもこう書かれています。

 

Vanitas vanitatum omnia vanitas.

空(くう)なるかな、空(くう)の空(くう)。すべてのものは空(くう)なり。

 

 

私たちもまた死ぬとその形状を変え、大気中や土壌、水分、一部は宇宙空間まで出て行くでしょう。そして、また別なものの構成要素として使用されるでしょう。

 

MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS

 

このことばを私たちは常に意識し、行動指針としてゆくのです。