「どうでもいい」という生き方 – こだわりから解放され、自分らしく生きるために

「どうでもいい」という言葉は、一見ネガティブに聞こえるかもしれません。しかし、その真の意味を理解し、実践することで、私たちは人生における様々な問題に対処する新しい方法を見出すことができるのです。

日常生活の中で、私たちは仕事、人間関係、自己評価など、あらゆる場面で自分の考えや感情に振り回されがちです。過去の失敗や将来への不安、他人の評価など、様々なことにこだわり、本来の自分らしさを見失ってしまいます。

「どうでもいい」という概念は、こうしたこだわりから自由になった行動をすることを可能にしてくれます。物事の本質を見極め、何が真に重要で、何がこだわりの対象にすぎないのかを見分ける能力を身につけることで、私たちは自分らしく生きることができるようになるのです。

この概念を実践することで、ストレス軽減、自己肯定感の向上、柔軟な思考力、問題解決能力の向上、人間関係の改善、人生満足度の向上など、多岐にわたる効果が期待できます。

しかし、「どうでもいい」という概念を実践するのは簡単なことではありません。長年のこだわりを手放すためには、自分自身と向き合い、内面の変化を起こす必要があります。

こうした「どうでもいい」の考え方を深く理解し実践していくには、日々の意識的な努力が欠かせません。時には、自分自身と向き合い内面を見つめ直すような機会を作ることも大切です。例えば、「自己変革のための生まれ変わりセミナー」では、マインドフルネスや臨死体験瞑想、心理療法の技術などを通して、意識変容を促す体験ができます。このようなセミナーに参加してみるのも、自分自身と向き合う良い機会になるかもしれません。

「どうでもいい」という言葉は、私たちに新しい生き方を提示してくれます。それは、自分自身と向き合い、真の自由を獲得していくための道筋なのです。この概念を理解し、実践していくことで、私たちは一人一人が自分らしく生き、より豊かな人生を送ることができるでしょう。

こだわりから解放されて生きる。そんな「どうでもいい」という生き方を、一緒に探求していきませんか。「自己変革のための生まれ変わりセミナー」で、新しい自分への第一歩を踏み出してみるのはいかがでしょうか。

四苦八苦は絶対に避けられない

人生には、生老病死や愛する人との別れ、思い通りにならないこと、嫌な人との出会いなど、様々な苦しみが付きものである。これらの苦痛は、人生にセットされた避けられない要素だと言えるであろう。

私たちは、これらの苦痛から逃れようと必死になる。しかし、逃げれば逃げるほど、苦痛は脳に刻み込まれ、身動きができなくなってしまうのである。例えば、嫌なことから逃れようと家に引きこもれば、一時的には安心感を得られるかもしれない。でも、いざ一人になったとき、生きるためのスキルがないことに気づかされるのである。

引きこもっている間も、将来への不安は頭から離れない。そんな苦しみから逃れようと、ゲームなどに没頭する人もいるであろう。でも、それは一時しのぎにすぎない。

本当に大切なのは、これらの苦痛をありのまま受け入れることである。そうすれば、苦しみに支配されることなく、自分の行動を選択できるようになる。

人生の苦しみから目を背けず、真摯に向き合う勇気を持つこと。それが、よりよい人生を歩むための第一歩なのかもしれない。

死を意識し、今を生きる!充実した人生を送るための思考法

妄想に惑わされない、真実の自分と生きる

私たちは、喜び、悲しみ、怒り、恐怖など、様々な感情に彩られた人生を歩んでいます。しかし、これらの感情は脳内で作り出される「妄想」であり、必ずしも真実とは一致しません。

過去の経験や価値観に基づいた妄想は、時に私たちを苦しめ、行動を制限してしまうことがあります。しかし、私たちは妄想に支配されるのではなく、自分自身をコントロールする力を持つことを理解する必要があります。

どんな妄想が頭をよぎっても、それに振り回されることなく、妄想に反応せず活き活きと生きることが重要です。

真実の自分と繋がる

社会的な役割や他人からの評価によって定義されるのではなく、自分が何を求め、何に喜びを感じるのか、自分自身と向き合うことで、真実の自分を見つけることができます。

真実の自分を見つけることは簡単ではありません。しかし、それを通じて、私たちは自分自身の可能性を最大限に発揮し、より充実した人生を送ることができるのです。
そのために『自己変革のための生まれ変わりセミナー』を実施し、そのあとの研究会でスキルとして身につけるエクササイズを行います。

たまたま生きている奇跡

私たちは、生きることが正しいと思って生きているわけではありません。たまたま生きているそのことを大切にし、どんな死に方であったとしても、死ぬまでは活き活きと生きる。
私たちは誰もがいつかは(その時期は誰にも分からない)必ず絶対に死にます。

この有限な時間を無駄にせず、後悔のない選択をするために、今この瞬間を大切に生きることが重要です。

妄想を超えて、真実の自分と生きる

  • 思考や感情は脳内で作り出される妄想であり、真実とは異なる。
  • 妄想に振り回されることなく、これらに反応しないことによって、妄想とは関係のない行動ができる。
  • 真実の自分を見つけ、可能性を最大限に発揮する。
  • たまたま生きている奇跡を大切にし、今この瞬間を活き活きと生きる。

これらの理解を深め、実践することで、私たちは日々直面する多くの妄想を超えて、現実に基づいた選択を行い、本当に価値のある人生を送ることができるのです。

思考や感情に囚われず、自分らしい人生を歩んでいきましょう。

コントロールの迷宮を抜け出す:アクセプタンスで自己解放へ

私たちは、コントロールできないことをコントロールしようとして、とても悩みます。

なぜなら、コントロールできないものは、コントロールできないからです。そして、コントロールできないことに対して怒り、憎み、攻撃的になります。あるいは、無価値感、劣等感に襲われます。

 

たとえば、人の言動はコントロールできません。

なぜなら、その人はあなたではないからです。

その人にはその人の行動や思考があるからです。

その人に成り代わって、どう生きるべきか、どう行動すべきか、どう考えるべきかをコントロールすることなんて絶対にできないのです。

 

同じように社会をあなたはコントロールすることはできません。

あなたはあなたの人生しか生きることができないのです。

 

しかし、実際のあなたはどうでしょう。

人や社会をコントロールしようとしていませんか。

 

もし、あなたがある人から悪口を言われたらどうしますか。

悲しい気持ちになったり、腹が立ったりするでしょう。

では、なぜそんな気持ちを持つのでしょうか。

 

そんな時のあなたの心の中を見てみましょう。

きっと

 

私の悪口を言うべきでない

私の悪口を言ってはいけない

 

というものが必ずあるでしょう。

 

これら

 

~べきでない

~べきである

~ねばならない

~してはいけない

 

などというものは「べき思考」と呼ばれもので、あなたの頭の中にあるルールです。

 

べき思考」はとても厄介なものです。

これらは、さまざまな理由づけや評価で武装して「この世の常識」「みんなが守るべきもの」に変わります。

「正義」「正しさ」という評価で武装するともっとやっかいなことになります。信念や価値観という形をとって、その人にとっては絶対的に正しいもの、人にとっても社会にとっても正しいものと信じてしまうからです。

 

べき思考」はあなたが定めたあなただけのルール(マイルール)にしか過ぎません。

全ての人があなたと全く同じ内容の「べき思考」を持っているわけではないのです。

べき思考」は実体として存在しません。

妄想なのです。

 

あなたがいくらルールを作っても破られる時があります。

自分に課したルールが破られると、自分に腹立ち、嫌になります。

人に課したルールが破られると、相手に腹立ち、失望します。

 

よく考えるとおかしなことに気づきます。

自分が作ったルールを他人が守らなければいけないことはないのです。

しかし、自らのルールを万人が守るべき「常識」と信じてしまうと、それに反する言動をする人を許せなくなるのです。

 

自分が作ったに過ぎないルールに人を従わせるためには、あなたはその人の思考や感情、どのような言動をすればよいかの行動をコントロールする必要があります。

実際にこのようなことはできるでしょうか。

 

あなたの作り上げたルールは人をコントロールしないし、そのルールは決して世界の常識でもないのです。頭の中にあるルールが単なる妄想であることをわからず、それを実体だと信じて、それによって人をコントロールしようとするのです。

あなたは決して人をコントロールできません。

同じような意味で社会もコントロールできません。

 

コントロールできないものをコントロールしようとする試みは、現実を思考で否定するようなものです。必ず、完全に失敗します。

 

過去もコントロールできません。

すでに起きている現実を「そうであってはならない」「こうすべきだ」と思考で否定しているだけなのです。

起きてしまった出来事に対して「なぜか」と原因を突き詰め、分析することも直接に役立つことではありません。

起きてしまった出来事に対して、今、この時にできる行動をすることが先決であり、分析は事後に行えばいいことです。

なぜならば、起きてしまった出来事に「なぜか」と問うのは、たいていの場合、現実否定が含まれているからです。

人生において、大切な人との離別や死、裏切り、自分の病気などに出くわした時に「なぜこうなったんだ」と分析しても解決にならないのです。分析している間は何かしている気持ちになることが多いですが、長い目で見ると、苦悩を深めているだけです。

起きてしまった出来事をありのまま認め、そこから自分がとり得る選択をし、行動する必要があります。その場合にも、自分がとり得る合理的な行動をとり、他人や社会のようにコントロールはできないものは、アクセプタンスする必要があります。

 

コントロールできるものはコントロールし、コントロールできないものはコントロールしないこと、コントロールしない代わりに受け入れることなのです。

受け入れるといっても、条件付きではなく、事実そのものをありのまま全部受け入れる(アクセプタンス)のです。

何よりも、コントロールできるものとできないものをしっかりと区別できる知恵がとても必要となります。

私たちの根底にあるものMEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS

私たちの根底にあるものが、MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS です。

これはキリスト教の影響下にあったヨーロッパのバロック期にもてはやされました。私たちは、宗教とは関係なく、戒めとして、そして行動指針としてこれらを重要視しています。

 

古代ローマで将軍が勝利の凱旋パレードを行うとき、将軍の使用人は「MEMENTO MORI」と将軍に囁いたとされています。

 

Respice post te!

Hominem te esse memento!

Memento Mori!

 

このラテン語はこう書いてあります。

 

振りかえろ!

あなたもまた人であることを忘れるな!

あなたもまた必ず死ぬことを忘れるな!

 

今は勝利の絶頂にいるかもしれませんが、明日には戦いに敗れて死んでいるかもしれません。

人は必ず死にます。

その死ぬ時期すら分かりません。

このことは私たちがセミナーで何度も繰り返してきたことでもあります。ともすれば「私は死ぬ」「私はいつ死ぬかも全く分からない」ということすら忘れて、人生を蕩尽してゆくこともしばしばです。

 

人生はゲームのようなものです。しかし、たった一度だけのゲームなのです。いつゲームオーバーになるか分かりません。

ある日突然やってくるのです。

私たちはこのゲームしかできないのです。

リセットもセーブもありません。

だとしたら、たまたま生まれたうえに、このゲームをせざるを得ないなのなら、とことん楽しまないと損です。

このように死と向き合い、死を真面目に考える者のみが、よく良く活き活きと生きることができるのですから。

生きていることは、死んでいないということ。そして、生きることに意味はありません。

生きることそのものを楽しんでゆくのです。

その中には四苦八苦が必ずあります。その四苦八苦すらも人生の一部なのです。

 

過去はすでになく、明日はまだ来ていません。

いつ死ぬか分からないからこそ、CARPE DIEM(一日の花を摘め 一日を摘め 今を楽しめ)なのです。

古代ギリシアのホラティウスが著した『歌集』には

 

Carpe diem quam minimum credula postero

明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め

 

と書いています。

まだ来てもいない未来は過去と同じく妄想です。

未来や過去はあったこともないし、あることもないのです。

私たちが生きているのは今しかありません。

常に今を生きているのです。

そして、この今こそが現実です。

現実である今から逃避して、ありもしない未来や過去へ妄想の旅をして自ら苦悩を作り出す必要はないのです。今この瞬間を私たちは精一杯味わい尽くしながらゲームをしてゆくのです。

人生は短く、時間はつかの間です。そして誰もが死んでゆくのですから、今ある機会をできるだけ楽しむことです。

 

妄想を取り払うと、そこには実体があるだけです。

実体とは、

 

ものがあってものが動いているだけ

 

なのです。

そこに意味はありません。意味は妄想だからです。

そして、ものすらも、想像を絶する広大な宇宙のありとあらゆるものが素粒子の流れにしか過ぎません。

あたかも空(くう)のようなものです。そして素粒子から構成されている宇宙は無から誕生しました。

まさにVANITAS(虚無)なのです。

旧約聖書の伝道の書にもこう書かれています。

 

Vanitas vanitatum omnia vanitas.

空(くう)なるかな、空(くう)の空(くう)。すべてのものは空(くう)なり。

 

 

私たちもまた死ぬとその形状を変え、大気中や土壌、水分、一部は宇宙空間まで出て行くでしょう。そして、また別なものの構成要素として使用されるでしょう。

 

MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS

 

このことばを私たちは常に意識し、行動指針としてゆくのです。

 

 

今だに考えや感情をコントロールしようという人がいるとは驚き

いまだに思考や感情をコントロールして幸せになろう!と言っている人が多いことか。

多くの人は、思考や感情をコントロールできると信じています。しかし、これは幻想です。

思考と感情は、私たちの意識の外で自然に生じ、その多くは直接的なコントロールを超えています。

不安や恐怖、喜びや悲しみなどの感情は、外部の出来事や内面の反応によって引き起こされ、意識的な意思で簡単に切り替えることはできません。

もしできるというのなら、どうして繰り返し不安や恐怖、絶望などが襲ってくるのでしょうか。

 

「赤い熊」の実験

次の一分間、「赤い熊」について考えないようにしてください。

どうなりましたか?

「赤い熊」について考えないようにしようとすること自体が、逆にその思考を強化してしまうのです。
これだけでも思考がコントロールできないことが分かるでしょう。
感情も同じことです。

電車の座席で自分の隣に座っている人を、感情をコントロールして愛することはできるでしょうか。
感情をコントロールできる、というのはこのようなことです。

いずれもコントロールできないことが分かります。

 

思考や感情は、「妄想」と捉えることができます。

これらはその人の脳内だけで発生し、第三者から観察も計測もできず、実体がありません。
このようなものは「妄想」というのです。
妄想には、思考や感情、意味、価値、比較など脳の活動によって生じるものがあります。
それらを事実として混同すると、「妄想」は私たちの行動や反応に影響を与える可能性があります。

事実とは実体があるものであって、第三者から観察も計測もできるものです。
このように考えると意味は脳内で発生する妄想ですから、
事実とは意味がないもの、すなわち単なるモノがあって、モノが動いている状態にしかすぎません。

妄想を事実だと信じる(フュージョンといいます)と、事実のように信じるのです。
事実だと信じると、行動や反応に影響があります。

 

妄想を妄想として認識(デ・フュージョンといいます)し、それに反応しないようにすることで、どんな思考や感情があっても、私たちの行動は自由になります。

絶望や不安を感じながらも、これらの感情を完全に受け入れる(アクセプタンスという)ことで、価値ある人生を歩むことが可能です。

思考や感情を切り分けて、「これは受け入れるが、これはいらない」とすることはできません。

そもそも「いい感情」「悪い思考」というのは、評価であり、評価自体も実体がない妄想の類です。

これを認識することで、私たちは思考や感情に振り回されず、より自由な行動を取ることができます。

思考や感情は行動に影響を与えることはあっても、行動を支配することはできません。

自分の内面の声に耳を傾け、価値ある選択をすることで、より意味のある人生を歩むことができるのです。

V.d.s.は、科学的根拠に基づいたプログラムを提供することで、思考や感情の罠から抜け出し、真の自分へと導きます。

今すぐ、V.d.s.と共に、自由への一歩を踏み出しましょう!

愚かなサルからニューヒューマンへ:苦痛と妄想から自由になるための方法

私たちは、苦痛と妄想に支配された「愚かなサル」として生きています。しかし、意識的に努力することで、苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送ることができる「ニューヒューマン」へと進化することができます。

愚かなサルとニューヒューマンの特徴

愚かなサル

  • 苦痛と妄想に振り回される
  • 人生の現実を否定する
  • 我執にこだわり、争いごとを起こす
  • オカルトやスピリチュアル、迷信などにこだわる
  • 科学的な根拠のないものを信じる
  • 自分の人生を生きることができない

ニューヒューマン

  • 苦痛と妄想を認識し、それに振り回されない
  • 人生の現実を受け入れ、それに基づいて行動する
  • 我執を手放し、他者との調和を大切にする
  • 科学的思考に基づいて判断し、行動する
  • 自らの人生を創造し、主体的に生きる

私たち

私たちは、ニューヒューマンの育成を目指して活動している団体です。私たちは、人間は本来、苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送ることができるという理想を実現しようとしています。

このブログ

このブログでは、私たちの指導となるテキスト「愚かなサルどもへ」の内容や、セミナー情報などを発信していきます。また、ニューヒューマンになるためのヒントとなるような記事も掲載していきます。

あなたもニューヒューマンになりませんか?

苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送りたい方は、ぜひ私たちと一緒にニューヒューマンを目指しましょう。

まずは、

ホームページから

「自己変革のための生まれ変わりセミナー REGENERATION」

に参加してください。

ニューヒューマン:苦痛を超え、真の自由を手に入れる

苦痛との共存:避けられないものを受け入れる

私たちは皆、人生の中で苦痛を経験します。肉体的な痛み、精神的な苦しみ、喪失感、孤独感など、様々な形で現れます。多くの場合、私たちは苦痛から逃れようとします。しかし、苦痛から逃れようとすることは、逆効果になることがあります。

「愚かなサルどもへ」というドキュメントでは、苦痛は人生の一部であり、それを完全になくすことはできないと指摘されています。そして、苦痛を受け入れることで、苦痛を無駄な苦悩に変えることを防ぐことができると説いています。

苦痛を受け入れるためには、実体と妄想を区別することが重要です。実体とは、客観的に存在するものであり、妄想とは、私たちの思考や感情によって生じたものです。苦痛は実体ですが、苦悩は妄想です。

苦痛を受け入れるには、マインドフルネスとデ・フュージョンの練習が役立ちます。マインドフルネスとは、今この瞬間に意識を向けることであり、デ・フュージョンとは、自分の思考や感情に執着しないことです。

苦痛を受け入れることで、私たちは自由になります。自由とは、苦痛や妄想に支配されないことであり、自分の人生を生きることです。

ニューヒューマンとは

ニューヒューマンとは、苦痛は人生の一部であり、それを否定したり、避けたりしようとはせず、苦痛を現実として受け入れ、苦悩に陥らない人間です。

また、「私」という妄想から解放された人間であり、自分と他者を分離せず、世界と一体であることを認識できる人間です。

ニューヒューマンは、以下のような特徴を持ちます。

  • 苦痛と妄想を克服して、より充実した人生を送ることができる。
  • 現実をありのままに受け入れることができるため、より客観的に物事を判断することができる。
  • 思考や感情に囚われないため、自由に行動することができる。
  • 社会に貢献し、よりよい世界を作ることができる。

具体的には、ニューヒューマンは以下のことができます。

  • 苦痛を苦悩に変えないため、苦しみから解放され、より幸せに生きることができる。
  • 妄想に振り回されないので、より冷静に物事を判断し、正しい決断を下すことができる。
  • 思考や感情にとらわれないので、自分のやりたいことに集中し、目標を達成することができる。
  • 社会の矛盾や問題を客観的に捉え、よりよい解決策を提案することができる。
  • 自分の能力や才能を使って、社会をより良い場所にするために活動する。

ニューヒューマンになるためには、思考や感情の性質を理解し、妄想に囚われないように訓練する必要があります。

カルトは多くの場合内に籠って妄想の世界に生きるのに対して、私たちは積極的に社会に出て貢献することも目的の一つです。

ニューヒューマンになるための方法

第一歩:自己変革のための生まれ変わりセミナー

ニューヒューマンになるためには、「自己変革のための生まれ変わりセミナー」を受講することが第一歩です。このセミナーでは、苦痛の性質、苦痛を受け入れる方法、「私」という妄想の否定、愛と慈悲の心の育成など、ニューヒューマンになるために必要な知識とスキルを学びます。

第二歩:研究会への参加

セミナーを受講後は、研究会に参加して、学びを実践していきます。研究会では、他のニューヒューマン候補者と交流し、互いに学び合い、成長していくことができます。

苦痛との共存:無駄な苦悩を減らす

ニューヒューマンにとって、苦痛は人生の一部であり、避けられないものです。しかし、苦痛を受け入れることで、無駄な苦悩を減らすことはできます。

苦痛を無駄な苦悩に変えてしまうのは、私たちの思考や感情です。苦痛を「悪いもの」と捉えたり、苦痛から逃れようと執着したりすることで、苦痛はさらに増幅されます。

ニューヒューマンは、苦痛を「あるもの」として受け入れます。苦痛を否定したり、避けようとしたりせず、ただそこに存在する事実として認識します。

苦痛を受け入れることで、私たちは苦痛に支配されなくなります。苦痛は依然として存在しますが、私たちの心を支配することはできないのです。

 

ニューヒューマンは、苦痛を超え、真の自由を手に入れた人間です。苦痛を受け入れることで、無駄な苦悩を減らし、自分の人生をより自由に生きることができます。

「自己変革のための生まれ変わりセミナー」を受講し、研究会に参加することで、あなたもニューヒューマンになるための第一歩を踏み出すことができます。

「私」という幻想を手放し、真の自己変革を遂げる

A thoughtful woman sitting in a serene, natural setting, surrounded by a lush forest. She appears to be in deep contemplation, her chin resting on her hand, gazing into the distance. The atmosphere is peaceful, with soft sunlight filtering through the trees, casting gentle shadows around her. She is dressed in casual, comfortable clothing that blends with the natural environment, suggesting a moment of personal reflection and connection with nature. Her expression is one of introspection and curiosity, as if she is pondering a profound question about her identity or purpose. The words "Who am I?" are subtly integrated into the scene, as if emerging from her thoughts.

私たちは皆、「私」という存在を意識しています。しかし、「私」とは何なのでしょうか?脳科学や心理学の発展により、「私」という存在は、想像以上に複雑で捉えどころのないものだということが分かってきました。

進化の過程で、記憶や思考といった能力は、生き延びるために必要なツールとして獲得されました。しかし、それらは独立した存在ではなく、「私」という意識を生み出すための要素の一つに過ぎません。

脳科学の研究によると、「私」という意識は、脳全体の活動によって生み出されています。特定の部位が「私」を司っているのではなく、様々な脳領域が複雑に連携することで、「私」という感覚が生み出されているのです。

つまり、「私」は脳の活動をコントロールしているのではなく、脳の活動をトレースしているだけなのです。

これらのことを考えると、「私」にしがみつき、守るべき「私」が何もないことが分かります。「私」は幻想であり、存在しないものなのです。

しかし、「私」がなければ何も問題はありません。むしろ、「私」という幻想を手放すことで、私たちはより自由になることができます。

「私」という概念に縛られることなく、様々な経験を受け入れ、自分自身を拡張していくことができるのです。

体験型セミナー『自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration』

「私」という幻想を手放し、真の自己変革を遂げるためには、単に知識を身につけるだけでは不十分です。実際に体験を通して、「私」という概念を揺さぶり、新しい自分自身を発見する必要があります。

体験型セミナー『自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration』は、「私」という幻想を手放し、真の自己変革を遂げるためのプログラムです。

このセミナーでは、以下のような内容を体験することができます。

  • 「私」という幻想を解き明かすワークショップ
  • 潜在意識にアクセスし、自己変革を促すワーク
  • グループワークや個人ワークを通して、自分自身を深く理解する
  • 自然との触れ合いを通して、心身をリフレッシュ

このセミナーを通して、あなたは以下のような変化を体験するでしょう。

  • 「私」という幻想を手放し、より自由な生き方を得られる
  • 自分自身をより深く理解し、自己肯定感が高まる
  • 他者とのつながりをより深く感じられる
  • 人生の目的や方向性を見出せる

真の自己変革への第一歩

「私」という幻想を手放し、真の自己変革を遂げたい方は、ぜひ体験型セミナー『自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration』にご参加ください。

このセミナーは、あなたの人生を大きく変えるきっかけとなるでしょう。

2024年2月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : V.d.s.-Master

自分の感情や考えに振り回されない生き方

私たちは、自分の感情や考えは行動に直結するものと考えてしまいがちです。しかし、実際には、それらは必ずしも行動を決定するものではありません。

例えば、目の前にある石を見たとき、人によって評価は異なります。「良い石」と感じる人もいれば、「気に入らない色の石」と感じる人もいるでしょう。しかし、石そのものは変わりません。異なる評価は、私たちの主観によるものです。

この評価と言う主観を、ものに投影しているだけです。

「嫌な人」や「苦手な人」と感じるのも同様です。これらの感情は、相手にあるのではなく、私たちの内面で作り出された妄想です。

この妄想を人に投影しているだけです。

物や人には、もともと意味はありません。

評価等の意味付けをしているのはあなたであって、そのあなたが意味のない人やものに自分の頭の中で発生した妄想を投影しているだけです。

このことを理解すれば、妄想である感情や考えに反応するのではなく、妄想として放置することができます。その結果、感情や考えに振り回されることなく、より価値ある方向へ進むことが可能になります。

実際、私たちは日常的に、感情や考えを妄想として扱っています。不快な思考や感情が頭をよぎっても、それに反応せずに日常生活を送っています。

もしそうでないと言うのなら、自分が考え感じたままに行動をしてしまいます。

例えば、腹が立ってこの人を殴りたいと思えば殴らないといけません。

実際はそうではありません。

このように思いや感情と行動は実は別のことなのです。

感情や考えを管理しようとするのではなく、それらに反応しないことで、私たちは自分の人生をより有意義に過ごすことができます。

感情や考えを単なる妄想と見ることができれば、無駄な苦悩から解放され、精神的、肉体的健康を保ちながら、自分のやりたいことに時間やエネルギーを注ぐことができます。

この視点から、私たちは自分自身の感情や考えに対して新たな関係性を築き、より積極的で自由な人生を送ることが可能になります。

2024年2月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : V.d.s.-Master