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コントロールの迷宮を抜け出す:アクセプタンスで自己解放へ
私たちは、コントロールできないことをコントロールしようとして、とても悩みます。
なぜなら、コントロールできないものは、コントロールできないからです。そして、コントロールできないことに対して怒り、憎み、攻撃的になります。あるいは、無価値感、劣等感に襲われます。
たとえば、人の言動はコントロールできません。
なぜなら、その人はあなたではないからです。
その人にはその人の行動や思考があるからです。
その人に成り代わって、どう生きるべきか、どう行動すべきか、どう考えるべきかをコントロールすることなんて絶対にできないのです。
同じように社会をあなたはコントロールすることはできません。
あなたはあなたの人生しか生きることができないのです。
しかし、実際のあなたはどうでしょう。
人や社会をコントロールしようとしていませんか。
もし、あなたがある人から悪口を言われたらどうしますか。
悲しい気持ちになったり、腹が立ったりするでしょう。
では、なぜそんな気持ちを持つのでしょうか。
そんな時のあなたの心の中を見てみましょう。
きっと
私の悪口を言うべきでない
私の悪口を言ってはいけない
というものが必ずあるでしょう。
これら
~べきでない
~べきである
~ねばならない
~してはいけない
などというものは「べき思考」と呼ばれもので、あなたの頭の中にあるルールです。
「べき思考」はとても厄介なものです。
これらは、さまざまな理由づけや評価で武装して「この世の常識」「みんなが守るべきもの」に変わります。
「正義」「正しさ」という評価で武装するともっとやっかいなことになります。信念や価値観という形をとって、その人にとっては絶対的に正しいもの、人にとっても社会にとっても正しいものと信じてしまうからです。
「べき思考」はあなたが定めたあなただけのルール(マイルール)にしか過ぎません。
全ての人があなたと全く同じ内容の「べき思考」を持っているわけではないのです。
「べき思考」は実体として存在しません。
妄想なのです。
あなたがいくらルールを作っても破られる時があります。
自分に課したルールが破られると、自分に腹立ち、嫌になります。
人に課したルールが破られると、相手に腹立ち、失望します。
よく考えるとおかしなことに気づきます。
自分が作ったルールを他人が守らなければいけないことはないのです。
しかし、自らのルールを万人が守るべき「常識」と信じてしまうと、それに反する言動をする人を許せなくなるのです。
自分が作ったに過ぎないルールに人を従わせるためには、あなたはその人の思考や感情、どのような言動をすればよいかの行動をコントロールする必要があります。
実際にこのようなことはできるでしょうか。
あなたの作り上げたルールは人をコントロールしないし、そのルールは決して世界の常識でもないのです。頭の中にあるルールが単なる妄想であることをわからず、それを実体だと信じて、それによって人をコントロールしようとするのです。
あなたは決して人をコントロールできません。
同じような意味で社会もコントロールできません。
コントロールできないものをコントロールしようとする試みは、現実を思考で否定するようなものです。必ず、完全に失敗します。
過去もコントロールできません。
すでに起きている現実を「そうであってはならない」「こうすべきだ」と思考で否定しているだけなのです。
起きてしまった出来事に対して「なぜか」と原因を突き詰め、分析することも直接に役立つことではありません。
起きてしまった出来事に対して、今、この時にできる行動をすることが先決であり、分析は事後に行えばいいことです。
なぜならば、起きてしまった出来事に「なぜか」と問うのは、たいていの場合、現実否定が含まれているからです。
人生において、大切な人との離別や死、裏切り、自分の病気などに出くわした時に「なぜこうなったんだ」と分析しても解決にならないのです。分析している間は何かしている気持ちになることが多いですが、長い目で見ると、苦悩を深めているだけです。
起きてしまった出来事をありのまま認め、そこから自分がとり得る選択をし、行動する必要があります。その場合にも、自分がとり得る合理的な行動をとり、他人や社会のようにコントロールはできないものは、アクセプタンスする必要があります。
コントロールできるものはコントロールし、コントロールできないものはコントロールしないこと、コントロールしない代わりに受け入れることなのです。
受け入れるといっても、条件付きではなく、事実そのものをありのまま全部受け入れる(アクセプタンス)のです。
何よりも、コントロールできるものとできないものをしっかりと区別できる知恵がとても必要となります。
私たちの根底にあるものMEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS
私たちの根底にあるものが、MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS です。
これはキリスト教の影響下にあったヨーロッパのバロック期にもてはやされました。私たちは、宗教とは関係なく、戒めとして、そして行動指針としてこれらを重要視しています。
古代ローマで将軍が勝利の凱旋パレードを行うとき、将軍の使用人は「MEMENTO MORI」と将軍に囁いたとされています。
Respice post te!
Hominem te esse memento!
Memento Mori!
このラテン語はこう書いてあります。
振りかえろ!
あなたもまた人であることを忘れるな!
あなたもまた必ず死ぬことを忘れるな!
今は勝利の絶頂にいるかもしれませんが、明日には戦いに敗れて死んでいるかもしれません。
人は必ず死にます。
その死ぬ時期すら分かりません。
このことは私たちがセミナーで何度も繰り返してきたことでもあります。ともすれば「私は死ぬ」「私はいつ死ぬかも全く分からない」ということすら忘れて、人生を蕩尽してゆくこともしばしばです。
人生はゲームのようなものです。しかし、たった一度だけのゲームなのです。いつゲームオーバーになるか分かりません。
ある日突然やってくるのです。
私たちはこのゲームしかできないのです。
リセットもセーブもありません。
だとしたら、たまたま生まれたうえに、このゲームをせざるを得ないなのなら、とことん楽しまないと損です。
このように死と向き合い、死を真面目に考える者のみが、よく良く活き活きと生きることができるのですから。
生きていることは、死んでいないということ。そして、生きることに意味はありません。
生きることそのものを楽しんでゆくのです。
その中には四苦八苦が必ずあります。その四苦八苦すらも人生の一部なのです。
過去はすでになく、明日はまだ来ていません。
いつ死ぬか分からないからこそ、CARPE DIEM(一日の花を摘め 一日を摘め 今を楽しめ)なのです。
古代ギリシアのホラティウスが著した『歌集』には
Carpe diem quam minimum credula postero
明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め
と書いています。
まだ来てもいない未来は過去と同じく妄想です。
未来や過去はあったこともないし、あることもないのです。
私たちが生きているのは今しかありません。
常に今を生きているのです。
そして、この今こそが現実です。
現実である今から逃避して、ありもしない未来や過去へ妄想の旅をして自ら苦悩を作り出す必要はないのです。今この瞬間を私たちは精一杯味わい尽くしながらゲームをしてゆくのです。
人生は短く、時間はつかの間です。そして誰もが死んでゆくのですから、今ある機会をできるだけ楽しむことです。
妄想を取り払うと、そこには実体があるだけです。
実体とは、
ものがあってものが動いているだけ
なのです。
そこに意味はありません。意味は妄想だからです。
そして、ものすらも、想像を絶する広大な宇宙のありとあらゆるものが素粒子の流れにしか過ぎません。
あたかも空(くう)のようなものです。そして素粒子から構成されている宇宙は無から誕生しました。
まさにVANITAS(虚無)なのです。
旧約聖書の伝道の書にもこう書かれています。
Vanitas vanitatum omnia vanitas.
空(くう)なるかな、空(くう)の空(くう)。すべてのものは空(くう)なり。
私たちもまた死ぬとその形状を変え、大気中や土壌、水分、一部は宇宙空間まで出て行くでしょう。そして、また別なものの構成要素として使用されるでしょう。
MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS
このことばを私たちは常に意識し、行動指針としてゆくのです。
今だに考えや感情をコントロールしようという人がいるとは驚き
いまだに思考や感情をコントロールして幸せになろう!と言っている人が多いことか。
多くの人は、思考や感情をコントロールできると信じています。しかし、これは幻想です。
思考と感情は、私たちの意識の外で自然に生じ、その多くは直接的なコントロールを超えています。
不安や恐怖、喜びや悲しみなどの感情は、外部の出来事や内面の反応によって引き起こされ、意識的な意思で簡単に切り替えることはできません。
もしできるというのなら、どうして繰り返し不安や恐怖、絶望などが襲ってくるのでしょうか。
「赤い熊」の実験
次の一分間、「赤い熊」について考えないようにしてください。
どうなりましたか?
「赤い熊」について考えないようにしようとすること自体が、逆にその思考を強化してしまうのです。
これだけでも思考がコントロールできないことが分かるでしょう。
感情も同じことです。
電車の座席で自分の隣に座っている人を、感情をコントロールして愛することはできるでしょうか。
感情をコントロールできる、というのはこのようなことです。
いずれもコントロールできないことが分かります。
思考や感情は、「妄想」と捉えることができます。
これらはその人の脳内だけで発生し、第三者から観察も計測もできず、実体がありません。
このようなものは「妄想」というのです。
妄想には、思考や感情、意味、価値、比較など脳の活動によって生じるものがあります。
それらを事実として混同すると、「妄想」は私たちの行動や反応に影響を与える可能性があります。
事実とは実体があるものであって、第三者から観察も計測もできるものです。
このように考えると意味は脳内で発生する妄想ですから、
事実とは意味がないもの、すなわち単なるモノがあって、モノが動いている状態にしかすぎません。
妄想を事実だと信じる(フュージョンといいます)と、事実のように信じるのです。
事実だと信じると、行動や反応に影響があります。
妄想を妄想として認識(デ・フュージョンといいます)し、それに反応しないようにすることで、どんな思考や感情があっても、私たちの行動は自由になります。
絶望や不安を感じながらも、これらの感情を完全に受け入れる(アクセプタンスという)ことで、価値ある人生を歩むことが可能です。
思考や感情を切り分けて、「これは受け入れるが、これはいらない」とすることはできません。
そもそも「いい感情」「悪い思考」というのは、評価であり、評価自体も実体がない妄想の類です。
これを認識することで、私たちは思考や感情に振り回されず、より自由な行動を取ることができます。
思考や感情は行動に影響を与えることはあっても、行動を支配することはできません。
自分の内面の声に耳を傾け、価値ある選択をすることで、より意味のある人生を歩むことができるのです。
V.d.s.は、科学的根拠に基づいたプログラムを提供することで、思考や感情の罠から抜け出し、真の自分へと導きます。
今すぐ、V.d.s.と共に、自由への一歩を踏み出しましょう!
愚かなサルからニューヒューマンへ:苦痛と妄想から自由になるための方法
私たちは、苦痛と妄想に支配された「愚かなサル」として生きています。しかし、意識的に努力することで、苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送ることができる「ニューヒューマン」へと進化することができます。
愚かなサルとニューヒューマンの特徴
愚かなサル
- 苦痛と妄想に振り回される
- 人生の現実を否定する
- 我執にこだわり、争いごとを起こす
- オカルトやスピリチュアル、迷信などにこだわる
- 科学的な根拠のないものを信じる
- 自分の人生を生きることができない
ニューヒューマン
- 苦痛と妄想を認識し、それに振り回されない
- 人生の現実を受け入れ、それに基づいて行動する
- 我執を手放し、他者との調和を大切にする
- 科学的思考に基づいて判断し、行動する
- 自らの人生を創造し、主体的に生きる
私たち
私たちは、ニューヒューマンの育成を目指して活動している団体です。私たちは、人間は本来、苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送ることができるという理想を実現しようとしています。
このブログ
このブログでは、私たちの指導となるテキスト「愚かなサルどもへ」の内容や、セミナー情報などを発信していきます。また、ニューヒューマンになるためのヒントとなるような記事も掲載していきます。
あなたもニューヒューマンになりませんか?
苦痛と妄想から解放され、より自由で充実した人生を送りたい方は、ぜひ私たちと一緒にニューヒューマンを目指しましょう。
まずは、
ホームページから
「自己変革のための生まれ変わりセミナー REGENERATION」
に参加してください。
ニューヒューマン:苦痛を超え、真の自由を手に入れる
苦痛との共存:避けられないものを受け入れる
私たちは皆、人生の中で苦痛を経験します。肉体的な痛み、精神的な苦しみ、喪失感、孤独感など、様々な形で現れます。多くの場合、私たちは苦痛から逃れようとします。しかし、苦痛から逃れようとすることは、逆効果になることがあります。
「愚かなサルどもへ」というドキュメントでは、苦痛は人生の一部であり、それを完全になくすことはできないと指摘されています。そして、苦痛を受け入れることで、苦痛を無駄な苦悩に変えることを防ぐことができると説いています。
苦痛を受け入れるためには、実体と妄想を区別することが重要です。実体とは、客観的に存在するものであり、妄想とは、私たちの思考や感情によって生じたものです。苦痛は実体ですが、苦悩は妄想です。
苦痛を受け入れるには、マインドフルネスとデ・フュージョンの練習が役立ちます。マインドフルネスとは、今この瞬間に意識を向けることであり、デ・フュージョンとは、自分の思考や感情に執着しないことです。
苦痛を受け入れることで、私たちは自由になります。自由とは、苦痛や妄想に支配されないことであり、自分の人生を生きることです。
ニューヒューマンとは
ニューヒューマンとは、苦痛は人生の一部であり、それを否定したり、避けたりしようとはせず、苦痛を現実として受け入れ、苦悩に陥らない人間です。
また、「私」という妄想から解放された人間であり、自分と他者を分離せず、世界と一体であることを認識できる人間です。
ニューヒューマンは、以下のような特徴を持ちます。
- 苦痛と妄想を克服して、より充実した人生を送ることができる。
- 現実をありのままに受け入れることができるため、より客観的に物事を判断することができる。
- 思考や感情に囚われないため、自由に行動することができる。
- 社会に貢献し、よりよい世界を作ることができる。
具体的には、ニューヒューマンは以下のことができます。
- 苦痛を苦悩に変えないため、苦しみから解放され、より幸せに生きることができる。
- 妄想に振り回されないので、より冷静に物事を判断し、正しい決断を下すことができる。
- 思考や感情にとらわれないので、自分のやりたいことに集中し、目標を達成することができる。
- 社会の矛盾や問題を客観的に捉え、よりよい解決策を提案することができる。
- 自分の能力や才能を使って、社会をより良い場所にするために活動する。
ニューヒューマンになるためには、思考や感情の性質を理解し、妄想に囚われないように訓練する必要があります。
カルトは多くの場合内に籠って妄想の世界に生きるのに対して、私たちは積極的に社会に出て貢献することも目的の一つです。
ニューヒューマンになるための方法
第一歩:自己変革のための生まれ変わりセミナー
ニューヒューマンになるためには、「自己変革のための生まれ変わりセミナー」を受講することが第一歩です。このセミナーでは、苦痛の性質、苦痛を受け入れる方法、「私」という妄想の否定、愛と慈悲の心の育成など、ニューヒューマンになるために必要な知識とスキルを学びます。
第二歩:研究会への参加
セミナーを受講後は、研究会に参加して、学びを実践していきます。研究会では、他のニューヒューマン候補者と交流し、互いに学び合い、成長していくことができます。
苦痛との共存:無駄な苦悩を減らす
ニューヒューマンにとって、苦痛は人生の一部であり、避けられないものです。しかし、苦痛を受け入れることで、無駄な苦悩を減らすことはできます。
苦痛を無駄な苦悩に変えてしまうのは、私たちの思考や感情です。苦痛を「悪いもの」と捉えたり、苦痛から逃れようと執着したりすることで、苦痛はさらに増幅されます。
ニューヒューマンは、苦痛を「あるもの」として受け入れます。苦痛を否定したり、避けようとしたりせず、ただそこに存在する事実として認識します。
苦痛を受け入れることで、私たちは苦痛に支配されなくなります。苦痛は依然として存在しますが、私たちの心を支配することはできないのです。
ニューヒューマンは、苦痛を超え、真の自由を手に入れた人間です。苦痛を受け入れることで、無駄な苦悩を減らし、自分の人生をより自由に生きることができます。
「自己変革のための生まれ変わりセミナー」を受講し、研究会に参加することで、あなたもニューヒューマンになるための第一歩を踏み出すことができます。