自然界をよく観察すると、多くのものが静かに佇んでいるように見えます。草木や動物、川や山々は、それ自体で存在していますが、そこに「意味」が含まれているわけではありません。私たち人間は、何かを目にした瞬間に「これは○○に役立つ」「これは××という価値がある」といった判断をしがちです。しかし、それらの判断はすべて私たちの脳の中で生まれているものであり、物そのものに固有の意味が内在しているわけではありません。測定機器で「意味」を測ることは不可能であり、それは物理的な量とは異なる領域です。意味を感じるのは、あくまで私たちの認知機能によるものです。
人間が存在しなければ、あらゆる意味づけは消滅してしまいます。もしこの世界に誰ひとりとしていなくなれば、「これは美しい」「これは有益だ」という評価もなくなるでしょう。進化や生存といった概念にも、人間がいなければ「意義」や「価値」は与えられません。長い年月をかけて生物が形を変えていく現象を、私たちは「進化」と呼び、その過程に目的や意図を見いだすことがあります。しかし、その「目的」は自然界が自ら持っているものではなく、あくまでも私たち自身が理解しやすいように意味づけをしているに過ぎません。生きることに対しても「素晴らしいこと」だとか「大変なこと」だとか、さまざまな形容を加えますが、それらは個々の人間の主観で成り立っている評価です。
では、物事に根本的な意味がないと気づいたとき、私たちはどう行動すればいいのでしょうか。意味がないものを前にすると、空虚さや無力感が湧きあがる人もいるかもしれません。しかし、そこには一つの見方があります。私たちは無意味なものを否定するのではなく、そのまま受け止めることができます。つまり「ありのまま」を認めるという姿勢です。川を見たら「ただ川が流れている」と事実を受け入れる。そこに「きれいだ」「不思議だ」といった評価を挟むかどうかは自由ですが、評価そのものが世界に埋め込まれた性質ではないと理解することが大切です。これが意味のない世界を受容する一つの方法と言えます。そこには人間の脳がつくり出す解釈や価値観を、いったん脇に置いて見る視点が必要となるでしょう。
多くの人は、日常生活の中で無意識に意味や価値を追い求めています。仕事の成果や人間関係の成就、あるいは趣味の充実に対して、つい「これには○○の意味がある」と考えたくなるものです。もちろん、それは私たちが社会を営んでいくうえでの自然な行為でもあります。ただ、その根底には「そもそも物には意味がない」という前提があるのだと自覚することが重要です。意味のなさを前向きにとらえることは、物事の評価に縛られすぎない生き方につながります。「あるがまま」を認めたうえで、自分自身がどのような解釈を加えるかを選択できるようになれば、過剰な思い込みや思考の偏りを和らげることができるはずです。
意味をつけたい人がいて初めて意味が生まれ、そこに理由や価値が見出される。しかし、意味がなかったとしても、自然界や物は存在し続けます。私たちの思考が停止しても、世界はそのままです。だからこそ、「本来は何も意味がない」ということを知りながら、それでも自分なりに理解を深めたり、楽しみを見いだしたりすることが可能なのです。ありのままの事実を受け入れつつ、自分にとって大切だと感じるものに素直に向き合う。それが意味にとらわれすぎない、しなやかな姿勢ではないでしょうか。