言葉で人は傷つく、と言います。
本当でしょうか?
たとえば、聞くに堪えないひどい言葉であなたの人格攻撃をしたとしましょう。
ただし、あなたが理解できない「ヘブライ語」で。
あなたは傷つきますか?
もし、これが日本語から、怒り、恨み、憎しみすら感じるかもしれません。
では、「ケチュア語」で同じことを言われたらどうでしょうか?
このように、あなたが理解できない言葉は単なる「音」にしかすぎません。
日本語が理解できない人は、日本語でどんなひどいことを言ったとしても理解不能であり、その人が傷つくことはないでしょう。
つまり、言葉そのものは人を傷つけないのです。
言葉は理解されて、初めて効果を持ちうるのです。
そこには、思考が媒介としてあるのです。
思考によって人は傷つくのです。
自らの思考によって。
ところで、では、そのような罵声を浴びされたら全ての人が同じレベルで同じ感情を発生させるのかと言えばそうではないでしょう。
ある人は激高し、ある人はせせら笑い、ある人は不愉快に思い無視するかもしれません。
ある人などは、それを見て滑稽さを感じるかもしれません。
そして、その感情を長く持つ人もいれば、その場限りで忘れる人もいるでしょう。
つまり、経験した事実は一つであるのに、どうしてこのような違いがあるのかと言えば、事実に対する「とらえ方」が違う、ということです。
とらえ方、すなわち、思考が違うということなのです。
これは、つまり、思考は事実ではないことを物語っています。
もし、思考が事実であるとするならば、みんな同じレベルで、同じ感情を持たなければならなくなりますが、現実はそうではありません。
人は言葉そのものではなく、言葉を理解する自らの、事実ではない思考によって傷つくのです。
「いや、その言葉のせいで私は腹が立った」と言い張る人もいるかもしれませんが、言葉そのものから何か物理的な光線が出たり、不思議な力が出てきて、人に作用しているのではなく、それを解釈する本人の中にこそ、感情の要因があるのです。
言葉そのものに傷つける力があるとするなら、なぜヘブライ語やケチュア語で傷つかないのでしょう。
なぜ、人それぞれの感情の多様な現れ方があるのでしょう。
結局、物事、事実に対する解釈の違いから、それぞれの人の現実が成り立っているのです。
さまざまな理由づけや評価、比較をして自分に対して人生や行動の制限をかけやすい人、感情や思考に振り回されて、本当にやってみたいことができない人は、この事実と思考の分離がうまくできないことが多いのです。
苦悩の多い人たちともいえるでしょう。
でも、もし、そんな苦悩に関係なく、苦悩に対処して、さらに苦しむことなく生きてゆくとしたらどんな人生を送ることができるでしょうか。
私たちは、この思考を「役に立つように利用する」ことを研究してきました。
事実と思考を徹底的に分離することによって、思いは思い、事実は事実として、さまざまな感情があったとしても、思考があったとしても、それはそれとして、「私の人生を歩む方法」を提唱します。