私たちの根底にあるものが、MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS です。
これはキリスト教の影響下にあったヨーロッパのバロック期にもてはやされました。私たちは、宗教とは関係なく、戒めとして、そして行動指針としてこれらを重要視しています。
古代ローマで将軍が勝利の凱旋パレードを行うとき、将軍の使用人は「MEMENTO MORI」と将軍に囁いたとされています。
Respice post te!
Hominem te esse memento!
Memento Mori!
このラテン語はこう書いてあります。
振りかえろ!
あなたもまた人であることを忘れるな!
あなたもまた必ず死ぬことを忘れるな!
今は勝利の絶頂にいるかもしれませんが、明日には戦いに敗れて死んでいるかもしれません。
人は必ず死にます。
その死ぬ時期すら分かりません。
このことは私たちがセミナーで何度も繰り返してきたことでもあります。ともすれば「私は死ぬ」「私はいつ死ぬかも全く分からない」ということすら忘れて、人生を蕩尽してゆくこともしばしばです。
人生はゲームのようなものです。しかし、たった一度だけのゲームなのです。いつゲームオーバーになるか分かりません。
ある日突然やってくるのです。
私たちはこのゲームしかできないのです。
リセットもセーブもありません。
だとしたら、たまたま生まれたうえに、このゲームをせざるを得ないなのなら、とことん楽しまないと損です。
このように死と向き合い、死を真面目に考える者のみが、よく良く活き活きと生きることができるのですから。
生きていることは、死んでいないということ。そして、生きることに意味はありません。
生きることそのものを楽しんでゆくのです。
その中には四苦八苦が必ずあります。その四苦八苦すらも人生の一部なのです。
過去はすでになく、明日はまだ来ていません。
いつ死ぬか分からないからこそ、CARPE DIEM(一日の花を摘め 一日を摘め 今を楽しめ)なのです。
古代ギリシアのホラティウスが著した『歌集』には
Carpe diem quam minimum credula postero
明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め
と書いています。
まだ来てもいない未来は過去と同じく妄想です。
未来や過去はあったこともないし、あることもないのです。
私たちが生きているのは今しかありません。
常に今を生きているのです。
そして、この今こそが現実です。
現実である今から逃避して、ありもしない未来や過去へ妄想の旅をして自ら苦悩を作り出す必要はないのです。今この瞬間を私たちは精一杯味わい尽くしながらゲームをしてゆくのです。
人生は短く、時間はつかの間です。そして誰もが死んでゆくのですから、今ある機会をできるだけ楽しむことです。
妄想を取り払うと、そこには実体があるだけです。
実体とは、
ものがあってものが動いているだけ
なのです。
そこに意味はありません。意味は妄想だからです。
そして、ものすらも、想像を絶する広大な宇宙のありとあらゆるものが素粒子の流れにしか過ぎません。
あたかも空(くう)のようなものです。そして素粒子から構成されている宇宙は無から誕生しました。
まさにVANITAS(虚無)なのです。
旧約聖書の伝道の書にもこう書かれています。
Vanitas vanitatum omnia vanitas.
空(くう)なるかな、空(くう)の空(くう)。すべてのものは空(くう)なり。
私たちもまた死ぬとその形状を変え、大気中や土壌、水分、一部は宇宙空間まで出て行くでしょう。そして、また別なものの構成要素として使用されるでしょう。
MEMENTO MORI,CARPE DIEM,VANITAS
このことばを私たちは常に意識し、行動指針としてゆくのです。