先日、私の知人が長い闘病生活の末にこの世を去りました。彼の最期の日々を振り返り、人生に必然として存在する「四苦八苦」について改めて考えさせられました。四苦八苦とは、仏教における避けがたい人生の苦しみの象徴で、すべての人が生きる中で出会う経験です。特に「死」という局面では、すべての苦しみが一挙に現れ、人生の意味や目的について深く考えざるを得ない瞬間が訪れるのです。
四苦の最初は「生」です。生まれてきた瞬間から、私たちは何かしらの苦しみと共にあります。周囲の影響や他者との関わりの中で、育つ過程での不自由さ、無力さ、そして存在そのものが多くの条件に左右されます。生まれたからにはその後に続く苦しみも引き受けなければならない、という重さがここにあります。
次の「老」も、避けられない苦しみです。誰もが年齢を重ねるにつれ、肉体的な衰えや限界を感じ始めます。かつて簡単にできたことが難しくなり、心も体もそれに伴って変化し、自分の思い通りにいかないことが増えていきます。老いはただ体の問題に留まらず、周囲からの理解や支援を必要とする自分に対するもどかしさも引き起こします。
さらに「病」も大きな苦しみです。人間は必ず健康なままでいることができず、いつか病にかかり苦しむ時が来ます。病気は体だけでなく心にも深い影響を与え、思い通りにいかない状況に苛立ち、弱さを実感せざるを得ません。闘病はその人を取り巻く環境や家族にも負担をかけ、健康の有難さと、病が心身に及ぼす重圧の大きさを突きつけます。
そして最後が「死」です。死は私たちの人生の最終地点であり、必ず到来する苦しみです。自らの死を前にした時、人は自分の人生の価値や意味を問い直し、そこに達観のようなものを見出すこともあれば、恐怖や不安が支配することもあるでしょう。知人の最期を見ていても、彼の目の前には、生まれ、生き、老い、病を経て、やがて死を迎えるまでの苦しみが凝縮されているかのようでした。
八苦の内訳には、さらに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」が含まれます。まず「愛別離苦」とは、愛する人との別れの苦しみです。知人の死を見届けた私にとっても、彼がいなくなった寂しさは痛みとして残ります。そして「怨憎会苦」は、嫌な人や望まない人と関わらなければならない苦しみです。人生には思うように人を選べない場面も多く、それが内面的な葛藤を引き起こします。
さらに「求不得苦」、求めても得られない苦しみも重要なテーマです。知人も健康を取り戻したいと願ったはずですが、その望みは叶いませんでした。人生にはどんなに努力しても手に入らないものがあるという現実が存在します。そして「五蘊盛苦」、すなわち五感を通じて生じる欲望や思いに囚われる苦しみもあります。知人もまた、人生の最後にかけて、自分の体への執着を手放すまで苦しんだかもしれません。これら四苦八苦はすべて、人生の様々な場面で私たちが直面するものですが、特に死を前にすると一挙に浮かび上がり、その総体として私たちの限りある生を映し出します。
こうした四苦八苦は、私たちの人生に不可避なものであり、避けられない事実として受け入れることが肝心です。これを「一の矢」といいます。しかし、苦しみをそのまま苦しみとして受け入れられず、心がそれに縛られ、もがき続けると「二の矢」となって人生の時間を奪ってしまいます。この「二の矢」とは、単に苦痛に対する反応ではなく、苦痛を苦悩へと変える心理的な囚われのことです。苦痛ではなく苦痛を苦痛に感じる状態のことです。
では、私たちが目指す「ライフ・ヴァリュー」とは何でしょうか。ライフ・ヴァリューとは、単なる物質的な成功や一時的な喜びではなく、自分にとっての人生の意義や生きる方向性を意味します。これがあることで、四苦八苦を通じて、私たちの人生が深い価値を持ち、意識的に生きることが可能になります。苦しみを単なる「一の矢」として捉え、余分な苦悩を抱え込まずに進んでいくことで、より豊かで充実した人生を歩むことができるのです。
私たちの集まりでは、ニューヒューマンとしてこうした四苦八苦の存在を受け入れながらも、それに囚われず、むしろライフ・ヴァリューに従って進むことを目指しています。自分が本当に生きたい方向性を大切にし、苦しみを経験しながらも、豊かに生きていく方法を探求しているのです。ニューヒューマンについてはほかのブログ記事を参考にしてください。人生の終わりに四苦八苦がすべて集約されるとき、その瞬間にこそ自分の生きてきた証が浮かび上がるのかもしれません。
私たちは、このスキルを日々の実践を通じて鍛え、人生をより自由に歩むための手助けを行っています。苦しみを苦しみとして受け入れ、ライフ・ヴァリューに基づいて行動することができれば、私たちの生はそれ自体として価値あるものになるのです。