ブログ
ブログ一覧
私たちの悩みなんて頭の中だけのもの
心は他人の目に見えるものではない
他人の心なんて誰にも分からない
人の心を観察し、計測するなんてできない
あなたの心の痛みはよく分かる
この言葉を聞くたびに、これを本気で言っているなら
本当の愚か者だ
人の心は絶対に分からない
だから、自信に満ち溢れているように見えたとしても、不安を抱えていることもある
幸せそうな顔をしていても、心の中は惨めなのかもしれない
笑ったり、冗談を言ったりしていても、気分が滅入っていることもある
毎日、仕事や学校に“元気そう”に出勤していても、いつも自殺願望があったりする
絶望し、惨めで不安でいっぱいになってしまうと、どうして自分だけ、と自分だけの小さな世界にこもる
その小さな世界が全世界のように感じる
しかし、どんな破壊的な考えや感情を持っていても、あなたの脳内のこれらとは全く関係なく世界はある
思考や感情などと関係なく世界はある
太陽は昇り、そして沈んでゆく
近所の家族の姿も見える
風が吹き、鳥もさえずる
あなたの苦悩は、あなたの外のこの世界には存在しない
あなたの外のこの世界とも関係ない
あなたの脳内に浮かび上がっているだけだ
どこにも実体として存在しない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
心理学、脳科学など科学をベースとした「考え方」を変える、つまりは人生そのものを変えてしまう可能性があるセミナーです。
様々な症状に苦しんでいても、その苦しみさえどうでもよくなってしまうようなセミナーです。
死は生命の終わりです。
死は絶対にやってきます。
死はいつかわからないけれど確実にやってきます。
しかし、私たちはそれを現実のものと捉えようとはしません。
確実に体験する死を真面目に考えることは、今を精一杯生きることでもあります。
このセミナーは、「死」を考え、「自分」を考え、「生きる目的」を考えるセミナーです。
数多くの実験やエクササイズ、映像とともに進行してゆきます。
お金持ちになろうとか、ハッピーな気持ちでいよう、ポジティブに考えたら何もかもうまくいく、宇宙にお任せしよう、思考や感情をコントロールしようなどというお気楽なものではありません。
それで解決するなら、どうしてまた、同じように悩んでいるのでしょうか。
かなり内容は深いセミナーです。
生まれ変わるためのセミナーです。
『自己変革のための生まれ変わりセミナー Regeneration』
思いや感情と行動は別のもの
思ったこと、感じたこと、つまり思考や感情と行動は別のものだと何度か書いてきた
いい気分ややる気がないから行動できない
一見正しいように見えるが、実は思考や感情と行動は別のもの
思考や感情は行動を支配はできない
正確に言うと、思考や感情は行動に影響は与えても支配はできない
もし、思考や感情が行動を支配していたとしたら、殴りたいと思ったら殴らないといけないし、殺したいと思ったら殺さなければならない
実際はほとんどの場合、こういう思考や感情、衝動を我慢して行動を抑制する
思考や感情がこのように行動を支配していたとしたら、私たちは今頃は墓の下か刑務所か精神病院である
例えば、拳銃を頭に突きつけられて、あなたが苦手とすること(人前でスピーチする、異性と話すなどなど)をしろと言われたらきっとするだろう
では、ずっと最高の幸せな気分に浸りながら読書をしろと言われたらできるだろうか
いくらポジティブに考えても、過去の記憶から幸せなことを思い出そうとしてもきっと読書に集中できないか稀に幸せな気持ちが発生してもすぐに色褪せる
これは、行動は思考や感情とは別にできること、そして感情(思考や衝動なども)はコントロールできないことを証明する
もちろん最初の話でどうしても苦手なことをしたくない、殺してくれ、ということも「するか・しないか」と行動を選択できることを示している
私たちはやる気がないから、嫌だから「〜しない」と当たり前のように言い、それが正しいものであるかのように信じている
私たち人間が持つ思考や感情のほとんどがネガティブなものだ
これは進化の中て生き残るために何百万年かけて得てきたものであるため、なくすことなんてできない
稀に幸せだ、安心しているという気分が発生しても長続きしないものだ
つまり、このような気分は贅沢品のようなもの
やる気やいい気分がないと行動できないというのは、贅沢品がないとしないというのと同じこと
気分や思いなんて刻一刻と変わるものであり、コントロールできないのに、やる気やいい気分を保たないと行動できないのは、結局「しないための理由づけ」にしかないことがわかる
思考や感情はコントロールできない
コントロールできないものは発生するがままに放置すること
それらの存在を認めつつ、反応しないこと
そして、そのような思考や感情を持ったまま、自分がやりたいと思った行動はできるのだ
一体何に対して怒っているのか
昨日、電車内で座っている初老の人の足が当たったということで、20代の男の人が大声で怒鳴っていました。
謝るのだったら、きちんと謝れ
その顔はきちんと謝っていない
そもそも足を組むべきでない
などなど・・・
時たま出くわす光景です。
さて、この若い男の人の目には何が映っているのでしょうか。
靴が足に当たった
よく見ると汚い靴だ
相手は気がついていない
気がついていない振りをしているのだろう
腹が立ってきた
注意をしてやろう
注意をしても、悪びれた様子なく謝った
バカにされた
謝る時はもっときちんと謝るべきだ
謝った後、また新聞を読み続けたのは、きっと私をバカにしている証拠だ
ますます腹が立ってきた
たぶん、こんなところでしょう。
これらのことばを見て分かると思いますが、この男の人は座っている初老の人に、自分が思ったことを被せて見ているだけなのです。
つまり、自分の思考を相手に被せて、それを事実だと思い込んでいるのです。
ここで言う事実とはもちろん実体のことです。
事実だけを見ると、
座っている初老の人の足が自分に当たった
その人は気がついていない
ただ、それだけなのです。
これが怒る理由なのでしょうか。
なぜ怒るのでしょうか。
その男の人は、足に何かが触れる(当たる)たびに同じ勢いで怒るのでしょうか。
もし、初老の人でなく、幼児や高齢者、やくざ、とても美人であったとしたら、同じように怒るのでしょうか。
その人や周りの乗客が頼んだわけでもないのに、どうしてこの男の人は怒るのでしょうか。
何に対して怒っているのでしょうか。
怒らなければいけないことなのでしょうか。
きっと、あなたは怒るか怒らないかは状況による、と答えるでしょう。
状況による、というならば、状況によって怒る怒らないは選択できるということになります。
では、どうしてこの人は怒ることを選択したのでしょうか、とまた先ほどの話に戻って堂々巡りになります。
そうは言っても、足に何かが触れた(当たった)という事実は変わりません。
結局、事実に対して怒っているのではなく、その事実を解釈した自分の思考(無視された、本心で謝っていない、反省がない、足を組むべきでないなど)を見て怒っているだけなのです。
自作自演をしているのです。
私たちは人の心なんて分かりません。
分からないからこそ、推測しようとします。
しかしその推測すら「私の推測」であって、決して相手の心を直接観察した結果ではありません。
にもかかわらず、自分の推測がいつの間にか「事実」となって、さらに次の思考や感情を呼び起こしてしまうのです。
しかも、思考は「正しさ」を証明するために、次々に「証拠」を挙げてくるのですが、それらすらも思考であることが分からず「事実」であると信じ続け、もっと腹を立てています。
妄想の上に妄想が重なるようなものです。
深い深い妄想と世界に入ってゆきます。
このように、人の心は分からないし、分かったように思えても、それはあくまでも私の思考であることを理解すると、人間関係はとても楽になります。なぜなら、人の心を分かろう、理解しようという絶対に無理なことをする必要もないし、それによって悩むことすらなくなるのですから。
私たちは妄想にとらわれて自作自演する
これは怒りだけではなく、不安や劣等感、恐怖、差別にも言えることです。
出来事をきっかけに、さまざまな思考を実体と錯覚し、それに見合った感情を自分で出しているだけなのです。
これらは全部自分がしていることなのです。
愚かなサルどもは、
実体→実体を思考が解釈する(妄想の世界に入る)→妄想を実体だと錯覚する→自分が妄想を創り出しているとは思わず、他人や社会からもたらされるものと信じる→妄想が創り出した「実体」(実は妄想)をもとにそれに見合う感情や身体感覚を創り出す→…
と繰り返してゆきます。
自作自演をしているだけなのです。
一方、私たちは、
実体→実体を思考が解釈する(妄想の世界に入る)→妄想を妄想だと知る→妄想を創り出しているのは自分だと知る→妄想は実体、つまり実体ではないため、妄想にとらわれない行動をとる
のような行動をするのです。
実体を思考が解釈してしまうのは人間であるならば、誰しも防ぐことはできません。
上の流れ図を見ても分かるように、私たちと愚かなサルどもの違いはその後のプロセスにあるのです。
それは、妄想を実体と錯覚するか、妄想を妄想として扱うかなのです。
これには根本的な違いがあります。
私たちはもともと意味のないものに思考を貼り付け、それが意味のあるものであるかのように、いとも簡単に信じます。
ものを見ているのではなく、そのものを通じて自分の思考を見ているのですが、それを簡単に忘れてしまうのです。
電車で怒っていた男の人の目は、その初老の人を見ているのではなく、自分の思考を見て怒っているだけなのです。
私たちが怒っている時のことを考えてもみてください。
出来事が過ぎ去ってもなお、腹立てているではないですか。
目の前にはその出来事がなくても怒っているではないですか。
目の前にその出来事がないのに一体何に対して怒っているのでしょうか。
簡単なことです。
頭の中の妄想(出来事を思い出して)に対して怒っているのです。
その人にはその出来事があたかも「今、ここ」にあるかのように感じているのでしょうが、他人からは全く見ることができないのです。
妄想に反応しているのです。
統合失調症の幻覚・幻聴に対する反応と全く同じなのです。
思考は、実体ではなく、実体に対するその人の「解釈」にしか過ぎません。解釈ですから、いかようにも変化します。
~にちがいない
きっとそうだ
~のはずだ
こんなことばが、いつの間にか思考を実体のように見せかけます。
私たちは「~にちがいない」「きっとそうだ」「~のはずだ」ということばを思い込みのことば、つまり、思考をそのまま事実として信じ込んでしまっているサインとして捉えます。
これらのことばが口から出る時には、フュージョンしていることが分かるのです。
このように、実体のようになったものを実体と信じ、場合によっては、その思考をさらに「評価」や「理由づけ」という思考で塗り固めます。
そして、いつの間にか妄想であるはずの思考が、本人の頭の中だけで「確固たる実体のように」なるのです。
そうなると、頭の中で「確固たる実体のようになった」ものから、世界を眺めるのです。
しかし、どんなに「確固たる実体のようになった」ものといっても、妄想にしか過ぎません。
つまり、妄想というフィルターを通じて見た世界を実体だと錯覚しているのです。
自分のフィルターで見ていること
そのフィルターは世界そのものを表しているものではないこと
自分のフィルターが他人にとっても同じものと頑なに信じていること
これらを忘れてしまっているか、分からなくなってしまうのです。
このようにして振り返ってみると、自分の妄想に自分が振り回されていることがはっきりとするでしょう。
自分の妄想によって自作自演しているだけなのです。
言葉で傷つく?
言葉で人は傷つく、と言います。
本当でしょうか?
たとえば、聞くに堪えないひどい言葉であなたの人格攻撃をしたとしましょう。
ただし、あなたが理解できない「ヘブライ語」で。
あなたは傷つきますか?
もし、これが日本語から、怒り、恨み、憎しみすら感じるかもしれません。
では、「ケチュア語」で同じことを言われたらどうでしょうか?
このように、あなたが理解できない言葉は単なる「音」にしかすぎません。
日本語が理解できない人は、日本語でどんなひどいことを言ったとしても理解不能であり、その人が傷つくことはないでしょう。
つまり、言葉そのものは人を傷つけないのです。
言葉は理解されて、初めて効果を持ちうるのです。
そこには、思考が媒介としてあるのです。
思考によって人は傷つくのです。
自らの思考によって。
ところで、では、そのような罵声を浴びされたら全ての人が同じレベルで同じ感情を発生させるのかと言えばそうではないでしょう。
ある人は激高し、ある人はせせら笑い、ある人は不愉快に思い無視するかもしれません。
ある人などは、それを見て滑稽さを感じるかもしれません。
そして、その感情を長く持つ人もいれば、その場限りで忘れる人もいるでしょう。
つまり、経験した事実は一つであるのに、どうしてこのような違いがあるのかと言えば、事実に対する「とらえ方」が違う、ということです。
とらえ方、すなわち、思考が違うということなのです。
これは、つまり、思考は事実ではないことを物語っています。
もし、思考が事実であるとするならば、みんな同じレベルで、同じ感情を持たなければならなくなりますが、現実はそうではありません。
人は言葉そのものではなく、言葉を理解する自らの、事実ではない思考によって傷つくのです。
「いや、その言葉のせいで私は腹が立った」と言い張る人もいるかもしれませんが、言葉そのものから何か物理的な光線が出たり、不思議な力が出てきて、人に作用しているのではなく、それを解釈する本人の中にこそ、感情の要因があるのです。
言葉そのものに傷つける力があるとするなら、なぜヘブライ語やケチュア語で傷つかないのでしょう。
なぜ、人それぞれの感情の多様な現れ方があるのでしょう。
結局、物事、事実に対する解釈の違いから、それぞれの人の現実が成り立っているのです。
さまざまな理由づけや評価、比較をして自分に対して人生や行動の制限をかけやすい人、感情や思考に振り回されて、本当にやってみたいことができない人は、この事実と思考の分離がうまくできないことが多いのです。
苦悩の多い人たちともいえるでしょう。
でも、もし、そんな苦悩に関係なく、苦悩に対処して、さらに苦しむことなく生きてゆくとしたらどんな人生を送ることができるでしょうか。
私たちは、この思考を「役に立つように利用する」ことを研究してきました。
事実と思考を徹底的に分離することによって、思いは思い、事実は事実として、さまざまな感情があったとしても、思考があったとしても、それはそれとして、「私の人生を歩む方法」を提唱します。
人気のある「自己変革のための生まれ変わりセミナー『REGENERATION』」のコースが大きく変更となりました
とても人気のある「自己変革のための生まれ変わりセミナー『REGENERATION』」は、セミナー時間が非常に長いものです。
これまでは1日セミナーで、所要時間は12時間以上はかかっていました。
そこで、コースを整理して以下の3つに分割して受講しやすくしました。
https://v-d-s.net/?page_id=14714
【ゲストコース】
一体どのような内容かを概観するためのコースです。
このコースでもきっと気づきが得られることでしょう。
(約3~4時間)
受講料金 3000円
【First Stage】
苦悩の仕組み、なぜ悩むのか、どうすればそれから抜け出せるのか、本当の「幸せ」とは何かについて学びます。
また、死から振り返ってあなたの人生をリセットするなど、いったんあなた自身の全てをリセットするためのコースです。
エクササイズが満載で、とても強力な内容となっています。
(約8~10時間)
受講料金 30000円
【Second Stage】(特典付き)
First Stageを受講した方が対象です。
First Stageの内容をもっと深くしたものであり、「私」とは何か、そもそも「何のために生きているのか」など、
エクササイズの中で深く掘り下げて学びます。
(約8~10時間)
受講料金 30000円
どちらのコースの方も、ヘッドフォンかイヤホン(音源を集中して聴くために必要です)を持参してください。
【Second Stage】受講の方は、ヘッドフォンかイヤホンに加えて、2ギガ以上のUSBメモリかSDカードを持参してください(特典の資料を電子媒体で配布します)。
