同じ経験をしても、
悩みやすい人
悩みにくい人
がいるのはなぜでしょうか?
という問いを私はよくします。
「それは、性格が違うから」
と多くのみなさんは答えますが、
では、悩みやすい人と悩みにくい人では、どんなふうに性格が違うのですか?
「性格」という言葉を使うと、それで分かったつもりになってしまうことでしょう。
あるいは、自分は
「もともとこんな『性格』だから悩みやすいんだ」
と自分に対する評価をしっかりと固定することでしょう。
自分は「悩みやすいから仕方ないんだ」と決めつけて、
何の解決にもならない答えです。
よく考えてみると、
体験した出来事や物事に対する「解釈が違う」からこそ、感情に差が出てくる
ことに気がつくと思います。
解釈が違う、つまり、あなたが考えることは事実そのものではない、ということです。
もし、あなたが考えることが事実そのものであれば、みんなあなたと同じように考えるはずですが、実際はそうではありません。
事実ではなく、事実の解釈なのです。
解釈は人の頭数ほどあります。
しかし、人は自分の解釈にすぎないものを世界の常識や絶対的な真実のように勘違いします。
勘違いするどころか、それをそのまま信じてしまうため、
感情が表れるのです。
そう考えると、
さまざまな感情は、事実そのものに反応しているのではなく、それぞれみなさんの事実を解釈した思考に反応しているにしか過ぎないのです。
自作自演をしているのです。
たとえば、
嫌いな人がいる場合、
その人の嫌な要素をその人にかぶせてしまうと、その人そのものが嫌のように思います。
実際は、嫌な要素をかぶせる、つまりは、自分の思考をその人に見て、それに反応しているにしか過ぎないのです。
もし、自分が好む人としか付き合わないというならば、
あなたの人生はとてつもなく制限されたものになるでしょう。
なぜなら、自分が「嫌」と評価するのは気まぐれであり、
「嫌」と思うものは望まなくてもやってくるのですから。
「嫌」なものがあると、人は戦ったり、回避したり、コントロールしようとします。
そうすることで人生に代償を支払ってきたはずです。
「私はこれでいいんだ」という人もたまにはいます。
あなたがそれを選択しているなら、それはあなたの選択ですから、選択に対する責任はあなたが負うことですね、
と答えることにしています。
でも苦しんでいる人は、自分の選択にすら責任を負っていないではないですか。
同じことでどうして後悔し、苦しむのでしょうか。
「これでいいんだ」と啖呵を切って同じことを繰り返すのは、無責任な選択ではないでしょうか。
もう一度書いておきます。
「嫌」だと思うことについては、
事実は・・・
自分の思考を投影したものに反応しているだけなのです。
人は「嫌」と思っていても、その人と付き合うこともできますし、お話もできます。
どんなことを考えても、どんな感情を持っても、行動は独立してできます。
だって、みなさん、嫌なことを嫌だと思いながらもやってきているではないですか。
もし、どんな思考や感情があっても、それらの言うとおりに行動するのではなく、
それらが何を言おうが、自分にとって役立つ行為ができるのなら、
とても素晴らしいことだと思いませんか?
私たちは、それを目指しているのです。
