一人でいるとき、電車に乗っているとき、自動車を運転しているとき、
そんな時、不意に不快な思いをすることが誰でもあります。
そして、そのことを考えれば考えるほど、腹立ち、イライラし、あるいは不安になって、どうしようもなくなることもあります。
さて・・・
この時、何に対してこのような不快な気持ちになっているのでしょう。
目の前に不快と思う対象物があるわけでもなく、人から見れば、
たったひとりでじっとしている、
にしか映らないでしょう。
でも、その人は、
実際に「見て」「体験」している
のです。
だからこそ、実際に感情が出てしまうのです。
そう・・・
その人は、
自分の頭の中にしかない映像を見て、体験して
いるのです。
目の前には何もないのです。
他人にはその人の頭の中を見ることはできません。
つまり、
その人は、現実にはないものを見て、体験して、
感情を沸き立たせているのです。
しかも、その現実にはないものは、
過去や未来のもの
なのです。
いや、実際に目の前にいる他人の言動で不快になることもある、
だから、目の前に現実にあるものに対してもそのような感情がある、
という人もいるでしょう。
確かにそうです。
けれども、よく考えてください。
それは、その言動そのものが不快という性質を持っているのではないのです。
言動は、単なる動作、音にしかすぎないのです。
その言動をその人が「不快と評価」して、不快と感じているだけなのです。
もし、その言動そのものに不快という性質があれば、誰でも等しく「不快」を感じるはずです。
しかし、それを不快と感じない人もいます。
つまり、不快はどこにあるかというと、
それもまた、あなたの頭の中にしかないものなのです。
このように人は、現実にはないものに対して、
それを現実だと錯覚して反応し、
単なる自分の評価を現実のものとして、
「不快」とラベル貼りをしたものを避けたり、遠ざけたりしているのです。
思考はただ思考だけなのです。
思考を信じなければそれは害はないのです。
思考はコントロールできません。
思考は、たまには真実を見せ、たまには嘘を見せます。
思考は、たまには楽しませ、たまには悲しませます。
気まぐれなのです。
バカげた思考はあなたも信じないでしょう?
このように思考を信じないことも、実は日常でもやっていることなのです。
思考は思考であり、事実を必ずしも反映していないのです。
そう考えると、人生は何と楽なことか、そう思いませんか?
