あいつが悪いから、喧嘩しよう・避けよう・無視しよう・・・
よくありますよね、こんなこと。
このテーマも過去の日記で何度か取り上げました。
何通か問い合わせのメッセでもありましたから、もう一度書いておきますね。
こんなたとえ話はどうでしょうか?
あなたがトマトが嫌いだとして、トマトを見るとどんな思考や感情が出てくるでしょうか。
気持ち悪い、見たくない、不味そう、においが嫌などとさまざまなことを考え、「嫌」という気持ちになります。
でも、もっとトマトをよく見てください。
トマトに「気持ち悪い」「不味い」などという属性はどこにもありません。
トマトは単なるトマトです。
トマトのどこを分解しても「不味い」「不快」「嫌」という属性はありません。
あるのは、そう、あなたの頭の中にだけしか存在しない「評価」なのです。
その証拠に、トマトが大好きな人もいます。
トマトそのものになにか放射能のように物理的に嫌になるものが出ていたら、思いとは関係なく、人は嫌になるでしょう。
でも、「不快」「嫌」と評価しているのはあなたの頭の中にだけしかないもので、それは人それぞれ違うものです。
つまりは、頭の中にしかないもので、人それぞれ違うものであるとするならば、その頭の中にある思考は事実ではない、ということです。
事実は、誰が見ても事実です。
たとえ人類が滅んだとしても、事実は変わりありません。
事実は、目で見て分かるものです。
評価は、文化や歴史などによって違うものですし、「感じるもの」ですから目に見えないものでもあります。
そして評価する主体である人類が滅んでしまうと評価はなくなります。
評価は単なる思考であるにもかかわらず、それを事実と錯覚することによって障害も出てきます。
トマトそのものに「不快だ」「嫌だ」という属性があるように信じてしまうからこそ、トマトを遠ざけ、回避するのです。
もちろん、トマトを嫌いになったからといって、生活や人生に障害が出ることはまずありません。
しかし、トマトではなく、対人関係や対社会関係などで評価を事実と信じることによって、回避をしたり、戦ったりすることによって苦しいものとなるならば、その思考は役立っていないのです。
明らかに、相手によってではなく、自分の思考に苦しめられているのです。
思考は単なる自分だけの思考、評価であり、事実でないならば、どんなに嫌な人に対しても、嫌な出来事に対しても、そう思いながら、感じながらでもその人と接触できるでしょう。
なぜなら、思いと行動は別のものですから。
もし、思いと行動が一致するんだ、という人がいるならば、その人は、殴りたいと思ったらすぐにその人を殴らなければいけません。
会社を休みたい、学校を休みたい、つまらないと思ったら、それを行動に表さなければなりません。
でもちがうでしょう?
もし、思った通りに行動していたとしたら、たぶん、刑務所か病院か墓の下でしょう。
どんなにひどいことを思ったとしても、行動はできるのです。
それは日常にやっていることです。
どんな評価をしても、行動はできるのです。
思いは思い、事実は事実、です。
もちろん、武器を持って攻撃してくる相手などのように物理的な攻撃をしてくる人に対しては、防御する必要があるのは当たり前のことです。
それは評価ではなく、事実ですから。
ところで、評価はおもしろいことに、それを正当化する「理由づけ」をやってのけます。
「常識」「社会通念」「道徳」などという目に見えないもので補強しようとします。
自分の思考にこだわる人は、マイルールを正当化して人に拡張しようとします。
私もたまに振り返って我が身を見つめないと・・・ (^^ゞ
