痛いことと苦しいこと

you_shouldnt_mess_with_nature_5_m

生きていたら痛いことはいくらでもありますよね?

たとえば人や自分の死、病気、老い・・・挙げればきりがありません。

これらはどんなに用心しても避けることができません。

誰もが通る道です。

そして、これらは心理的に「痛い」ものです。

非常に痛いものです。

避けようと努力しても、痛みの方からヒョイとやってきます。

しかもどこにそれが転がっているのか分かりません。

ところが、「『痛い』ことが嫌だ」と思い悩むことは、「痛み」とは別のことです。

頭痛は確かに痛いものですが、頭痛をすることを思い悩むこととは別なものです。

「痛い」ものを苦痛、「『痛い』ことを思い悩む」ことを苦悩と言うことにすると、
苦悩は単に痛いだけのものをもっと悪化させたものといえるでしょう。

死は嫌ですが、死を恐れ、それに思い悩むことは苦しみを増大させます。

病気は嫌ですが、病気を恐れ、病気について思い悩むことは苦しみを増大させます。

このように苦悩は、実は苦痛をさらにひどくしたものなのです。

苦痛は誰にでもありますが、苦悩の程度は人それぞれです。

苦悩を避けるためにさまざまな努力をします。

しかし、その努力が効果を持つのは一時だけです。

なぜなら、同じ状態になると同じ対処法を行うからです。

よくあるのが、「手放し」

何かつらいことがあると手放しをすると言います。

でも、実際に手放していたら、同じ状態の時に手放すものはなく、そもそも同じ状態になるはずもないのですが、それでも手放すというのは、なにも実際は手放していないことなのです。

だからこそ、同じことを繰り返し、つかの間の心の安定を作り出しているだけなのです。

さらに言えば「手放す」という思考や行動が問題を維持しているとも考えられるでしょう。

そもそも、感情や思考の一部を切り取ってそれを手放すなんてできると本当に思うのでしょうか?

ところで、苦痛を苦悩に変えてしまう原因はいくつかありますが、

理由づけ

関連づけ

もその代表的なものです。

たとえば、

配偶者が病気になった

子供が事故に遭った

ペットが突然亡くなった

これらが同時期に起きたとしましょう。

一つ一つは独立した出来事であるにもかかわらず、何かしらの関連があると思い込み、

運命が悪い

呪われている

悪い波動が・・・

と出来事を関連づけて理由づけてしまうと、実際の痛み以上のものになってしまうのです。

つまり、「運命が悪い」と頭に浮かんだ思考にすぎないものを事実として信じてしまい易くなるのです。

本来は、一つ一つの出来事に対処すればいいことであるのに、

関連づけされ、たとえば「運命」とか「呪い」というような手に負えないものを想定すると、自分ではどうしようもなくなってしまいます。

思考は頭に思い浮かぶものであるし、そのコントロールはできないものです。(過去日記を読んでくださればありがたいです)

実体はなく、事実ですらありません。

しかし、関連づけ・理由づけするとあたかもそれが事実であると信じてしまうのです。

人は事実そのものを見るのではなく、事実に思考を投影して、つまり、事実の解釈を見ているにしか過ぎないのです。

世界は、その人その人の解釈によって成り立っているとも言えるでしょう。

ありのままに事実には、悩みはありません。

今、ここにも悩みはありません。

不安は未来、後悔は過去なのです。

そして、未来も過去も今、ここには存在しないし、存在したことはないのです。

そう、人は常に、今にしか生きることができないのです。

にもかかわらず、存在しない時間のことを思考し、それを事実と信じるとき、不安や後悔となるのです。

———————————–

最新の心理学をベースとした V.d.s.
人生と心の自由を取り戻す

V.d.s.

近々、これまでの日記に書いていた具体的なエクササイズをまとめたテキストを販売します。
すでに完成し、最後の校正に入っています。

こんな商品も販売していますので、もし興味がありましたらどうぞ。

●本当の自分を知るために ~ 空性のメディテーション
http://vds.ptu.jp/onsei/kuusyou/

●恐怖・不安を瞬時に解消するために
http://vds.ptu.jp//Break%20switch/

●催眠と特殊な音源を使ったダイエット
http://vds.ptu.jp/diet/

●対人関係の向上のために
http://www5a.biglobe.ne.jp/~macht/onsei/taijin/

●肉体のヒーリングプロセスを大きく加速する
症例に応じたヒーリングもしています

https://v-d-s.net/?page_id=8134

私にはできない

i-cant-do-it

いろんな人からメッセが来ますが、よく言われることが

「ファウスト博士さん、頭では理解できますが、私にはできません」

というものです。

なるほど、もっともな理由です。

思考や感情はコントロールもできず、ましてやこれらは自分自身そのものではない・・・という話は理解できて、いざ、行動に移そうとしても、そもそも思考を信じてしまっている状態では上手くいくはずもありません。

私が何度も日記で書いていることの一つは、

「思考や感情は行動の原因とはならない」

ということです。

片足の人は両足で歩くことはできません。
これは物理的に不可能なことです。

気分が滅入ったから、外に出ることができません。
気分が滅入ることは、物理的に外に出ることができないことを意味するものではありません。

気分が滅入っても、外に出ることはできますし、日常生活でも、嫌だと思いながらも、行動することはできます。

そもそも思いと行動が一致するならば、殴りたいと思ったら殴らないといけないですし、殺したいと思ったらそうしなければいけません。

思いと行動は全く別のものなのです。

ところで、「できません」と言うとき、どういう状態が多いでしょうか。

できない理由は、本当に物理的に不可能なことなのでしょうか?

物理的に不可能、たとえば、手足を縛られているとか、途方もない能力が今すぐ要求されるとかなどがそれに当たるでしょうが、そもそもそんなことであれば、「できる・できない」以前のお話となります。

できない理由が、さまざまな評価や信念、価値観などの思考によるものであるとするならば、それは物理的に不可能なことではないのです。

なぜなら、そのような限界は外の世界のどこにも存在せず、自らの頭の中にしかないものですから。

自分で頭の中に設定した限界を実在のものとして捉えるため、「できない」という思考を持つのです。

みなさんもよくお分かりかと思いますが、これは

「できない」のではなく「しない」

ということと同一なのです。

「できない」と言えば、

自分はやりたいのに「何かが邪魔をして《できない》」

という理由づけになります。

しかし、その何かが「頭の中にしかない理由」ならば、それはできない理由ではないのです。

つまりは、

「しない」という宣言

をしているだけなのです。

「しない」という宣言をしたところで、その人は何も変わりません。
「どうすればできるか」と自らに問いかけることもせず、「できない理由」ばかりを並べても何の実りもないことです。

どうしてもやりたいことがあるとき、

できない理由が湧いて出てくると、

それが物理的なものか、自らの頭の中のものか、それをはっきりと峻別して、

自らの頭の中のものであるならば、そんなできない理由を持ったまま、それでも行動してみましょう。

V.d.s.は、これらの苦悩をすり抜ける方法を実際にエクササイズを使って教えてゆきます。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

あいつのせいで・・・

l_178

私たちは、困難に陥ったり、理不尽と思われるような状況になると、

「○○のせいで、▲▲ができない」

と考えます。

でも、こういうとき、本当に○○のせいなのかどうか、問いかけてみてください。
それは事実なのか、あなたの解釈なのかをしっかりと検討してください。

事実というのは

「片足を骨折したから、両足で走れない」というように、外側から見て観察可能なものです。

解釈というものは、

「あいつが私を馬鹿にした言い方をしたから、やる気が出ない」

というようなもので、解釈は外からは観察できないものです。

つまり、馬鹿にした言い方というものは、相手が発した言葉という事実に、その人なりの解釈をあたえたものであり、
その解釈は人によって違うものです。
これは事実とは違うものです。

人は、やりたくないとき、自分のせいにしたくないとき、同情を集めたいとき、仲間を募りたいとき、

「○○のせい」

ということを理由としやすいです。

そうすると、自分が傷つかないからです。

さらに、「▲▲ができない」というとき、

本当に▲▲をするための選択肢は他にはないのかを検討したのか、
どうしてそれしかないと思うのか、

というものをあらためて考えてみるといろんなことが分かるでしょう。

つまり、「あいつのせいで○○ができない」というとき、「あいつが○○しなかったら、本当にできるの?」ということです。

あなたは「被害者」となって自己を守ってはいないでしょうか?

V.d.s.は、これらの苦悩をすり抜ける方法を実際にエクササイズを使って教えてゆきます。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

私はバナナ

20130905221822

妙なタイトルです。

そう、今日はこの妙なタイトルを考えてみたいと思います。

あなたがある日突然

「私はバナナである」

ということを思いついたとしましょう。

なんて変な思いつきだ、と考えることでしょう。

なぜなら、「私はバナナ」と思い込むことと「私はバナナである」こととは別だからです。

いくら思い込んだとしても、

「私はバナナ」

ではないのです。

ところが・・・

「私はどうしょうもないやつ」

ということを思いついたとしましょう。

さて、どうですか?

何だかもっともらしく感じませんか?

もっともらしく感じると気分が滅入りませんか?

「私はバナナである」

「私はどうしようもないやつである」

言葉上はバナナとどうしようもないやつが入れ替わっただけなのです。

バナナと同じように、「どうしようもないやつ」と思い込むことと、
「どうしようもないやつである」ことは別なのです。

にもかかわらず、どうして「どうしようもないやつ」に対しては感情が左右されるのでしょうか。

私の過去の日記を読んでもらえればお分かりかと思いますが、

思うことは事実そのものではありません。

本来は意味のない事実に対して、評価や比較、理由づけを思考が行います。

つまり、事実そのものを見ているのではなく、自分の思考を見ているのです。

思考を事実と考えてしまうと、このように感情が左右されてしまうのです。

たとえば、「私」に「どうしようもない」という評価を与えると、その評価を強化するために、さまざまな理由づけ(過去の失敗や恥をかいたことなど)、他人との比較などが行われるからです。

よく考えると、失敗ばかりではないし、成功したこともあるでしょう。

他人と比較しても、いいときも悪いときもあるでしょう。

しかし、よい状態のことは度外視し、「どうしようもない」に対する理由づけだけを集めてゆくのです。

ついには、「私はどうしようもない」というものが事実となり、そして落ち込むのです。

本当のことを言えば、

「私はどうしようもない」ではなく、

「私はどうしようもない、という思考を持っている」のです。

それは、「私はバナナ」という思考を持っていることと全く同じであり、

どんなに頑張っても、バナナにはなれないのです。

このように、事実と思考が分離すると、

「ああ、おもしろい考えを持っているな」

で終わるのです。

その考えに巻き込まれ、理由づけやさらに評価を加えて、ますます苦悩することはなくなるのです。

V.d.s.は、これらの苦悩をすり抜ける方法を実際にエクササイズを使って教えてゆきます。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

怖い・・・

motion-sickness1

友人の中にひどい車酔いの人がいます。

子供の頃は酔ったりはしなかったのですが、成人になってから友人たちとバス旅行をしたときに一度車酔いをして嘔吐しました。

たまたま、その時に体調が悪かっただけだと思い、気にもせず夜行バスに乗って遠方にひとりで行きました。

その時、また気分が悪くなったのです。

それからというもの、バスには乗れなくなりました。

病院で診察を受けても、原因は分からずじまい。

心因性、と言われてしまったようです。

今は、バスだけではなく、車や電車すらも乗ることが怖く、行動範囲や交友関係は著しく制限されてしまっています。

あれほど明るく旅行が好きな人であったのですが、最近は家の中で時間をつぶすことが多いようです。

しかも、最近はショッピングセンターなど人が多いところにも「人酔い」をすると言って出なくなりました。

この友人に何が起こったのでしょうか?

最初、たまたま何かの拍子にバスに乗っていて気分が悪くなり、嘔吐してしまいました。

そして、ひどくばつが悪く、恥ずかしい思いをした上、友人に迷惑をかけたという思いがありました。

次にバスに乗ったときは、乗る前から、

今回は大丈夫だろう。

ああ・・・大丈夫だ、どこも気分が悪くないし・・・

でも、待てよ。

もし気分が悪くなったら、今回は私ひとりだけだし、周りは知らない人ばかり。

しかも、夜行バスだから、カーテンまでされて、静かな空間。

酔ったらどうしよう・・・。いや、大丈夫だ・・・。でも・・・

こんなことが頭の中でぐるぐる回ってしまっていたのです。

その上、ふだんなら気にしないのに、身体の異常や気分の悪さはどこかにないかと必死で探し始めたのです。

そして、少しでも悪いところを見つけると、

ほら、見つかった!

酔ってしまったらどうしよう・・

まだ起きてもいないことを頭の中で何度も何度も考え、自分が酔って周りに迷惑をかけ、恥ずかしい思いをしている姿をありありと思い浮かべているのです。

まだ、その友人の前にあるバス停にはバスが来ていないというのに。

そこで、そんなことは考えないようにしよう、と思考をコントロールし始めたのです。

もちろん、「考えないようにしよう」という思考のコントロールはできませんから、

バスに乗ったとたん、逆にそのことばかり考えるようになりました。

気そらしをするために本を読もうとしても、酔ってしまうかもしれない・・・

音楽を聴こうとしても、目を閉じると、酔ってしまうかもしれない・・・

周りは知らない人ばかり・・・

ますます孤独感と無力感が強くなり、ついに酔ってしまったのです。

不安や恐怖は拡大します。

バスによく似たもの、車や電車、そして、人が多いようなところ(人前で恥をかいたらどうしよう)にも拡大します。

このように、今ここにない状態をありありとイメージし、異常を非常に敏感な感度で探し始め、何かあるとそれを酔いの兆候と結びつけ、思考をコントロールしようともがき、ついには、酔ってしまう、ということを繰り返してしまうのです。

酔いの原因はどこにあるのでしょう?

そう、友人の思考との関わりなのです。

苦悩に陥ると人は、思考や感情をコントロールしようとします。

一時的にはホッとしますが、それが長期的には意味がないどころか、コントロールそのものが症状を維持する中心部分になることさえあります。

これは私の過去の日記にも書いています。

耐えきれなくなると、人はついには、逃避するのです。

この場合、逃避とはバス、車、電車に乗らない、人混みが多いところにいかない・・・というものです。

そうすると、その友人の行動、交友範囲は非常に狭くなります。

もっと恐ろしいことがあるのです。

それは、バスに乗らなくても、それをありありと思うだけでも気分が悪くなるのです。

思考や感情をコントロールしたところで、そんなものはできっこないし、耐えられなくなって逃避したところで、事態は悪化するばかりです。

どうしたらいいのか・・・

それは、「完全受容」(アクセプタンス)することなのです。

一切の防御なく、条件をつけることなく、言い訳や評価をただ、思考の囁きと受け流しながら、苦悩を味わい尽くす、それしか方法はないのです。

この世に魔法は存在しません。

しかし、魔法に代わる方法がアクセプタンスです。

ただし、いきなりこんなことをしても意味がありません。

順を追ってステップアップしてゆく方法があります。

もし、パニックや不安、恐怖、劣等感などさまざまな思考や感情に苦しめられ、人生や生活が硬直化しているならば、是非ともアクセプタンスという方法があることを意識してください。

V.d.s.は、これらの苦悩をすり抜ける方法を実際にエクササイズを使って教えてゆきます。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

助けて欲しい・・・しかし・・・

help-sm

ある掲示板を見ていたらこんなことがありました。

男性からの相談なのですが、

「自分の持ち家で同棲している彼女がメンヘラで、暴力を働き、家をたたき出された。
これまで何度もこういうことがあった。何とかしたいが知恵を貸して欲しい」

というものでした。

それに対して、

別れたら?

→ 別れたいが、別れるとなると暴れるので怖いからダメ。

警察に行ったら?

→ これまで何度も警察に行ったが、そのたびに暴れるからダメ。

好きなの?

→ 嫌いだ。何とか別れたい。

彼女の両親に話したら?

→ 一度そういうことをしたが、両親は「娘の意思に任せる」と言ったきりで話にならない。

合い鍵で家に入ったら?

→ 合い鍵は捨てられ、携帯も壊されているから、連絡のとりようがない。

ドアを壊して入ったら?

→ 暴れて家の中のものを壊されるからダメ。

俺だったら、殴ってでも別れるな。

→ あなたと私は違う。あなたにできても私にはできないし、暴れて家の中をめちゃくちゃにされるのが嫌だ。

こんなことが延々と続いていました。

何とかしたいと相談を持ちかけておきながら、できない理由を並べているだけなのです。

このような人はよくいます。

たとえば、今の自分が嫌だから変わりたい、変えてみたい、と言いながら、

自分が納得したら

自分ができることであれば

などと、条件付きで、今の自分が認めることだけをする、というのは全く変わる意思がないものでしょう。

また、

あなたにはできるが私にはできない

私には難しすぎる

分からない

とあからさまに拒否する人もいます。

人の性質として、どんなに苦しくても今まで何とかやりくりしてきたおなじみの方法と、

これまで学んだことがない方法とを比較すると、

経験がないことをするのはリスクがあり、恐れや不安があるため、おなじみの方法を選びがちです。

あなたにはできるが私にはできない

自分が納得したら

などという思考を信じて行動すると、

結局は変わらない自分がいるだけであり、

その時、相手を拒否したり、論破したところで、何も変わらない自分を維持しているだけなのです。

思考は、変化を好まないのです。

変化は経験がなく、リスクがあるように見えるからです。

そして、他にもっといい方法があるかもしれない・・・そう考えてさまようのです。

実は、こうした行動が、今のその人を作りあげているのです。

もし行き詰まったり、同じことを繰り返したりしているとき、

全く違うことをやってみる、それがリスクを伴うように見えたとしても、

それでも歩んでみる価値があるのではないでしょうか。

セラピーの原則

上手くいっているならそれを続けよ

上手くいかなければ別なことをしろ

いったん上手くいくと、それをやり続けろ

大切なことだと思います。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

あいつが悪い・・・

red_house_music-img600x450-1393239873qjhn6m98858

あいつが悪いから、喧嘩しよう・避けよう・無視しよう・・・

よくありますよね、こんなこと。

このテーマも過去の日記で何度か取り上げました。

何通か問い合わせのメッセでもありましたから、もう一度書いておきますね。

こんなたとえ話はどうでしょうか?

あなたがトマトが嫌いだとして、トマトを見るとどんな思考や感情が出てくるでしょうか。

気持ち悪い、見たくない、不味そう、においが嫌などとさまざまなことを考え、「嫌」という気持ちになります。

でも、もっとトマトをよく見てください。

トマトに「気持ち悪い」「不味い」などという属性はどこにもありません。

トマトは単なるトマトです。

トマトのどこを分解しても「不味い」「不快」「嫌」という属性はありません。

あるのは、そう、あなたの頭の中にだけしか存在しない「評価」なのです。

その証拠に、トマトが大好きな人もいます。

トマトそのものになにか放射能のように物理的に嫌になるものが出ていたら、思いとは関係なく、人は嫌になるでしょう。

でも、「不快」「嫌」と評価しているのはあなたの頭の中にだけしかないもので、それは人それぞれ違うものです。

つまりは、頭の中にしかないもので、人それぞれ違うものであるとするならば、その頭の中にある思考は事実ではない、ということです。

事実は、誰が見ても事実です。

たとえ人類が滅んだとしても、事実は変わりありません。
事実は、目で見て分かるものです。

評価は、文化や歴史などによって違うものですし、「感じるもの」ですから目に見えないものでもあります。
そして評価する主体である人類が滅んでしまうと評価はなくなります。

評価は単なる思考であるにもかかわらず、それを事実と錯覚することによって障害も出てきます。

トマトそのものに「不快だ」「嫌だ」という属性があるように信じてしまうからこそ、トマトを遠ざけ、回避するのです。

もちろん、トマトを嫌いになったからといって、生活や人生に障害が出ることはまずありません。

しかし、トマトではなく、対人関係や対社会関係などで評価を事実と信じることによって、回避をしたり、戦ったりすることによって苦しいものとなるならば、その思考は役立っていないのです。
明らかに、相手によってではなく、自分の思考に苦しめられているのです。

思考は単なる自分だけの思考、評価であり、事実でないならば、どんなに嫌な人に対しても、嫌な出来事に対しても、そう思いながら、感じながらでもその人と接触できるでしょう。

なぜなら、思いと行動は別のものですから。

もし、思いと行動が一致するんだ、という人がいるならば、その人は、殴りたいと思ったらすぐにその人を殴らなければいけません。
会社を休みたい、学校を休みたい、つまらないと思ったら、それを行動に表さなければなりません。

でもちがうでしょう?

もし、思った通りに行動していたとしたら、たぶん、刑務所か病院か墓の下でしょう。

どんなにひどいことを思ったとしても、行動はできるのです。

それは日常にやっていることです。

どんな評価をしても、行動はできるのです。

思いは思い、事実は事実、です。

もちろん、武器を持って攻撃してくる相手などのように物理的な攻撃をしてくる人に対しては、防御する必要があるのは当たり前のことです。

それは評価ではなく、事実ですから。

ところで、評価はおもしろいことに、それを正当化する「理由づけ」をやってのけます。

「常識」「社会通念」「道徳」などという目に見えないもので補強しようとします。

自分の思考にこだわる人は、マイルールを正当化して人に拡張しようとします。

私もたまに振り返って我が身を見つめないと・・・ (^^ゞ

悪口を言うべきでない

pawahara2-00360

よく「人から悪口を言われた」「人から○○○された」と言います。
そして、それが辛い、苦しい、と。
あるいは恋人からふられた、嫌われと、それが悲しいと。

この時、頭に浮かんでいる感情や思考をよく観察してください。
たぶん、「人は私の悪口を言うべきでない」「恋人は私を裏切るべきでない」などと

 「人は○○○すべきでない」

という思考があり、その思考からそれにふさわしい感情が発生していることに気がつくでしょう。

しかし、この時、人は悪口をすでに言っていますし、すでに恋人はあなたをふっています。

これが現実であり、現実にすでに発生しているものなのです。
これに対して思考で現実を否定しているだけなのです。

 「人は○○○すべきでない」と。

思考で現実を否定しても、苦しみしか残らないのです。

そして、次の行動をとろうとします。
つまり、苦しみから逃れるためにさまざまな回避策(人との関わりを断つ、異性を信じない、酒で紛らわせるなど)をとります。

さらには、次に同じようなことを体験したくないため、人の顔色や評価をうかがいながら、つまりは、人の行動や感情にすら振り回されて、言いたいこと、やりたいことが出来なくなってしまうのです。
自分の内では自分の思考と感情に振り回され、さらには相手の行動や感情にもふりまわされ、何重にも苦しみます。

では、「人は私の悪口を言うべきでない」と主張したところで、悪口は言わなくなるでしょうか?

悪口を言う、何かを思う、何かを行動するのは相手の自由です。
あなたがそれになりかわって、他人の行動をすべてコントロールできるでしょうか?
それとも、他人に対して「悪口を言わないでくれ」と懇願しまわるでしょうか。
仮にそうしても、言う、言わない、思う、思わないはその人の自由なのです。

つまりは人はコントロールできないのです。

コントロールできないことをコントロールしようとすると、ここに苦悩が現れてきます。

確かに、悪く言われることはあります。これは生きている限り誰もが体験することで、苦痛ともいえるでしょう。
しかし、これをコントロールしようとすると苦痛が苦悩に素早く変わります。

人からどう見られるか、人からどう評価されるか、確かに気になる時はありますが、あなたは人の行動によって、人の顔色を見て、自分の人生を歩むわけではありません。

気にはなっても、それでも自分の方向に行くことは出来るのです。

悪口を言われるといい気はしませんが、それだけです。
思い悩むこともないですし、そもそも思い悩むこと自体が、「相手は悪口を言うべきでない」と現実を否定した苦悩に陥っている証拠なのですから。

コントロールできないものは、悩みようがないのです。
しかし、それを何とかしようとするから苦しみが出てくるのです。

悩みやすい人の特徴を見てみると、会話に受動態が多いことに気がつきます。

「言われた」「された」などの「れる・られる」が多い傾向があります。

つまりは、自分の行動より、コントロールできない人の動向で自分の行動が規定されているような人たちなのです。
そして、人はコントロールできませんから、悩んでしまうのです。

思考にしても、他人にしても、コントロールできないことについては、一切のコントロールをやめることです。

もし、あなたが今何かに悩んでいるとき、

頭の中で「~べき」「~べきでない」という思考に支配されていないか。
このルールをもって、それでコントロールできることか、できないことか。

それを見極めることです。

コントロールできないと見極めたとき、一切のコントロールをやめればいいのです。

———————–

【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

何かした気になること それは回避ではありませんか?

living-with-pain-approach-avoidance-conflict

画像は、

「やり遂げる」か「避ける」かその選択をしようとしているものです。
さて、自分にとって大切なことをしようとするとき、それをする前に、
突然、掃除をすることを思いついて掃除をしたり、

突然、買い物をすることを思いついて買い物をしたり、

はたまた、大切なことをする前に準備が必要だといって準備に時間を費やしたり、
こんな経験はみなさんありますよね?

しかも、掃除や買い物準備に時間を使っている間は、
大切なことや何かをしている気持ち
になっているのです。

気がつくと、大切なことそのものができていないことがあります。

掃除や買い物、準備をしているときは、大切なことの一部のようにさまざまな理由づけがなされ、

まずそれから始めないと大切なことができないように信じています。
結果はどうでしょう?

大切なことをする前にあきらめてしまったり、

掃除や買い物、準備に時間を費やして「時間がない」と新たな理由づけをしたり、

私は頑張ったんだと信じ込んだり・・・
結果はどうでしょう?
そう、大切なこと、そのものをしていないのです。
これは巧妙な回避であり、先延ばしでもあるのです。
何が巧妙化といえば、

しないことの理由づけが本人の中ではきちんとあるからです。

試しにそのような人にこう聞いてみたらどうでしょう。
「大切なこと、まだしていないですよね?」
すると、こう答えるでしょう。
「いや、まずこれ(掃除、洗濯、準備など)ができないと次には進めない。そのために必死で頑張っている」
でも、どんな理由づけがなされても、大切なことをしていない事実には変わりないのです。

つまり、大切なことをしない理由を述べているにしか過ぎないのです。
しない理由を発明するのは私たちは得意です。

いろんなこと、つい先ほどまで考えもしなかったことを持ち出して、それを理由にし、信じ込んでしまうからです。

大切だと思いながら、しない理由を持ち出して、それを信じて、なぜしないのでしょうか。
たぶん、結果が怖いのです。
結果とは、
失敗を怖れる
ことが大きな理由かもしれません。

失敗しないいちばんいい方法は、それをしないことですから。

それさえしなければ、失敗もないのですが、やり遂げることもないのです。

ついには、そもそも大切なもの、そのものを
「実はあれは大切なものではなかったのだ」
と最悪の回避をしてしまうこともあるでしょう。

イソップに出てくる「酸っぱいブドウ」のようです。
どんなにもっともらしい理由づけをしても、

どんなにそれに努力をしても、

事実は、何もやっていないのです。
努力したから何かやっているわけでもなく、しない理由のために努力しているだけなのです。

私もみなさんも、何か一生懸命にやっていて結果が出ないとき、こんな罠に陥っていないか、振り返ってみる必要がありますね。

そして、絶対に失敗しない選択をするための理由づけが、どれほどもっともらしくても無駄な時間を費やすより、大切なそのものをまずはやってみましょう。

 

私がこれまで述べてきた、思考や感情、人生の価値、マインドフルネスなどをまとめたテキストを音声誘導付きで作成中です。

そろそろ完成します。

そこには具体的にどうすればよいのか、という実践や人生の価値を見つける方法などが書かれています。

みなさんの生き方に役立てば、と思っています。

きっと、目から鱗が落ちると思います。
また、症状別にトリートメントを行うヒーリングもはじめました。

催眠や心理療法との融合も考えています。

https://v-d-s.net/?page_id=8134

より良くなるためなら手段を選びません。

それが私たちのモットーでもあるのです。
【人生の自由を取り戻す V.d.s.】

V.d.s.

さまざまな特典のあるメルマガ会員募集中です。
多くのセミナーや研究会、セラピーも行っています。
科学に裏付けのある効果的なものを目指しています。

心理療法、催眠など厳選した膨大な書籍やDVD、催眠用の小道具などはこちら
きっと役立つものがあるはずです

https://v-d-s.net/?page_id=6584

ハイパー・ユニバーサル・レイキ

Reikihealing

これまで、催眠やセラピーを行ってきましたが、あらたにヒーリングもすることになりました。

『誰かのために、何かできることをしませんか?』

私たちは、このレイキを基本として、
さらに役立つヒーリング手法(クォンタムタッチ・クォンタムエントレインメント・マトリクス法など)を付け加え、

レイキの力をより強め、
そのエッセンスのみを、
シンプルに、
いろんな状態にも対応しやすく、
学びやすい形で、
伝統や形式に縛られず、
自由に使うことができ、
各症例に対するトリートメントに重点を置く

をテーマに、ハイパー・ユニバーサル・レイキ(Hyper・Universal・Reiki(HUR))として提供することにしました。

困難を抱えてやってくるクライアントは解決や回復、癒しを求めているのであって、決してレイキを始めたとされる臼井氏の伝説や系統・正統性を求めているわけではありません。

『伝説や系統を見るのではなく、困っている人を視る』

という精神のもと、伝説や不必要なものをそぎ落とした、エッセンスのみのシンプルで効果ある実利的なレイキです。

これまでのレイキに飽き足らない人は、きっとその効果に満足するでしょう。

https://v-d-s.net/?page_id=7293